第2回紋別ぴよぴよ会・ホテル2日目夜

落石山の北側をひととおりまわって,セントラルホテルに帰ってきました.

 

部屋に帰ったら,部屋がきれいになっていました.2泊3日とかしたことがないので,ホテルが勝手に清掃されるというの知らなかったんですが,タオルとか2日使うつもりだったので,洗って干しておいてあって,そういうのはそのままだったので,タオルが倍に増えていました.交換してくれるなら,そうとどこかに書いておいてほしいんですが,タオル倍なのでうれしいですね.

 

 

ホテルのユニットバスみたいなところにある洗面台に,お湯を入れて,ボディーソープ的なものを少し溶かして,洗濯物を手洗いします.手洗いしたら,浴槽に入れていって,全部手洗いし終わったら,こんどは洗面台のお湯を張り替えて,もうすすぎます.すすぎを2回ぐらいやったら,いい感じに干しておきます.これで普通に洗濯したのと同様になるんで,とてもいいんですが,お金があるなら洗濯機を使ったほうがいいのかもしれません.倫理観が問われます.

 

 

次回以降のぴよぴよ回でどこに行くのかはわかりませんが,今回は落石山の北側に行ったので,次は南側かなあという気持ちがあります.ただ,上渚滑や渚滑に行くというのも考えられるので,行ってから考えたいと思います.

 

 

リンスなんて使ったことなくて,なんかよくわからんけど,親水基が窒素とかだから,水に溶けると陽イオンになるやつという認識だったんですが,柔軟剤だったんだなということがわかり,大変に勉強になりました.

 

 

おふろふろふろ おふろふろ

 

 

ホテルのレストランみたいなところがあったので,食べました.よるご飯ありで宿泊しました.

 

 

セントラルホテルの朝ごはん夜ごはんは普通に一食につき1200円追加で,すごくおいしいものが食べられるので,おすすめできます.

 

 

鶏ザンギ定食とかいうのをたのみました.ザンギってなんですか.

 

 

実は学部1年生のときは生命科学系とかいうところに所属していたので,細菌の勉強もしました.

 

 

セントラルホテルを出て,向かい側のセコマに行きました.セントラルホテルを出ると,ホテルの街灯に蛾が大量に群がっていました.数えると大体50匹ぐらい飛んでいました.実はこの蛾,紋別の街中に大量にわいていて,任意の街灯に群がっています.

 

このセコマ,ホテルの向かいにあって,すごい便利です.で,入ったんですが,入ろうと思って自動ドアを開けた瞬間に,外にいた蛾がたくさん入っていきました.それを見て店員が網を持って1匹ずつ外に出すというのをしていて,申し訳ないなという気持ちになりました.自分が入ったあとにも,入ってくる人がたくさんいたのですが,出しても出しても蛾が入ってきます.店員の人は,外に出した蛾を踏み潰していたので,外には蛾の死体がいっぱいありました.殺虫剤と踏み潰すのでは,どちらのほうが苦しくないのだろうか.圧死と神経毒のどちらの方が楽なのか人間で考えてもよくわかりませんし,人間と比較していいものなのかもわかりません.

 

セイコーマートには店員が2人いました.1人は若い男性で,網で蛾を外に出したり,商品を棚に入れていました.もう1人は,すごい高齢者の男性で,杖を付きながら店内を歩いていました.この高齢男性が会計をするのですが,ものすごく動きが遅く,1.5L入りのペットボトルをなんとかカゴから出していました.セイコーマートは愚かな政府の圧力に屈しておらず,あるいは,北海道とかいう僻地には中央の政策が波及しておらず,ビニール袋がタダなので,勝手に袋をつけてくれるのですが,会計の最初から最後まで1言も介す必要がなく,お金を払うとレシートとお釣りを無言で置いてくれました.限界田舎光景だと思います.

 

 

よるご飯2食目ありだな〜と思いアンケートを取りました.愚かだと思います.早く寝たほうがいいと思います.こういうときにどういう行動を取るべきかっていうのは,ちゃんと知見として得ておくべきです.普通に一日中歩いたんだから,8時間とか寝ないと厳しいと思います.はやく寝るべきです.

 

それで,高い金を出して良いものを食べるのでなく,セイコーマートの安い商品を買って食べるというのも愚かです.

 

 

なんだかんだ普通のコンビニなので,普通のものしか売っていません.

 

 

セコマの安酒で悪酔いしました.高い日本酒は悪酔いしません.たくさん飲むならメタノール含有率が低いお酒がいいです.果実酒はメタノール含有率が高いと思うので,おいしいからと言ってあまりたくさん飲まないほうがいいです.セコマの安酒果実酒は,アルコールが入っただけのただのジュースでした.安くて酔えればなんでもいいならおすすめです.

 

なんかサウナがありました.こういうのってビジネスホテルとかで見たことなくて,スーパー銭湯とかだとあるという認識なんですけど,北海道はやはり違うのでしょうか.

サウナとかいうの,なんかおっさんが入ってるやつという認識だったんですが,自分もおっさんに近づいてきているし,誰もいなくてぴぇ〜〜〜〜もふもふ〜〜〜最上川〜〜〜〜などと唱えても誰にも聞かれないし,入ってみることにしました.

女児アニメ録画を見直したりするときについでに民法見たりするんですけど,たまに謎の限界旅番組とかやっていて,人々がサウナとかに入って「いいぞ〜」みたいなことを言っていて,「いいのか〜」というのをなんとなく思っていたという話です.

暑い空気を吸うと喉が痛いと思います.

「あんなものをよいものとして広めようとするのもどうかしてるし」「というようなまねをじぶんもしていてどうかしているわけだけれども」みたいなことが言いたかったらしい.

きみょうむりょうじゅにょらいなむふかしぎこう

 

酔ってサウナに行くと良くないと思います.

 

次は最終日3日目です.

 

つづき

(まだかけてない)

第2回紋別ぴよぴよ会・夜の紋別市街

潮見町もおわりです.落石山の北東側斜面を沿って歩き続けると,次第に紋別港北防波堤が見えてきます.アルトゥルコタンからトマリオロへと抜ける光景は,紋別の歴史と地理を感じるものです.

 

 

おんぼろ市役所が見えてきました.戻ってきたことを実感できます.

 

 

市役所の反対側に渡ると紋別大谷認定こども園があります.幼稚園と認定こども園の違いがなんなのかとか,よくわかりません.

 

このこども園の裏に大谷派圓満寺があります.真宗といえば一番大きいのが本願寺派で,二番目が大谷派です.大谷高校とか大谷大学とかいろいろ世の中にはありますが,大谷派はなんでもかんでも大谷って付けがちです.

 

自分の実家も大谷派の檀家です.派閥が違ったからと言って,ナンマイダーって言っているのは変わらないし,浄土の存在を前提としているのも変わりません.仏壇の作りやお教の読み方がちょっと違うだけなのに,真宗十派だとかなんだとかいろいろあって,なんなんだ,なんまいだ,という感じですが,全部同じと思ってしまうのも,これがほんとの十派一絡なのかもしれませんし,毎日のお勤めに励みましょう.(本当に?)

 

 

大谷派の檀家だと,お寺から親鸞カレンダーみたいなのをもらえたりするので,もしかしたらこのこども園でも,そういうの配ってるのかもしれません.ああいうのってどこで作ってるんですかね.東本願寺とかに在庫いっぱい抱えてそうではあります.

 

 

自殺はだめです.生きることに意味はあります.

 

 

圓満寺の道路を挟んで北側には旧名寄線の跡があります.道路だけ見ると結構な勾配なんですが,実際はこのもうすこし南側を線路が通っていたので,それを考慮すると勾配はゆるやかで,鉄路が存在していたことを実感できます.

 

 

陽気ぐらし教です.詳細は1日目の記事に書くつもり(この記事の方が執筆順序が先)なんですが,やっぱり仏教寺院とも神社とも違う独特な感じがあります.

 

 

おんぼろ市役所と議事堂の間の崖がいいですね.これ,本当にいいと思うのでみなさん見に行きましょう.

 

 

いつの地図なんでしょうか.この地図にある商店はもうほとんど残っていません.

 

 

明治期に遊郭があったのはもうちょっと写真奥の本町側みたいです.ここにあったのは芝居小屋だったようです.

 

もうひとつの「東亭」は明治二十年代に建てられた芝居小屋では紋別で一番最初のもので月一回か二回興行があった。「あの頃は紋別へ来た旅回りの一座が雪のため、次の土地に行けなくてよく越年したものです。だから越年芝居というのもありました。中村紫蝶一座がやはり越年し座長が地元の人たちに踊りの振り付けをしたりし、習った素人たちが演芸会を開いたこともありました。紫蝶一座はその後紋別で解散しました。(斎藤貳郎さん談)」という話にもあるように、開拓前期の数少ない文化の殿堂の役割を果たしました。

『夜ばなし 紋別ものがたり(一)』 p.9

 

 

芝居小屋があった場所は,戦後,大原畳店があったみたいですが,いまはマンションと空き地になっています.

 

 

いつからやってないんだろうか.

 

 

さらに港の方に道を下っていきます.消防団の建物があります.

 

 

消防団の反対側にあるのが,この労働福祉会館.この建物,めちゃくちゃおもしろいです.

 

 

支部の事務所は四二年、港町一丁目、現紋別市労働福祉会館の完成と同時に同館内に設置し、それまでは支部長宅などを利用していた。五八年四月現在の支部党員数は四三人。

『新紋別市史 下巻』 p.184

 

1967年から社会党はここを拠点としていたようです.紋別市初代市長大西真平,2代市長官尾貫一は社会党系で,紋別は戦後革新系市政から始まった自治体でした.

 

日本社会党紋別支部が古屋正気を中心とする党員九〇〇余人をもって結成されたのは昭和二一年(一九四六)二月である。翌二二年四月、戦後初の統一地方選挙で党公認候補として道議に古屋正気、町長に大西真平(推せん)をたて、当選させた。しかし古屋は二三年五月、任期わずか一年で札幌において急逝した。

『新紋別市史 下巻』 p.182

 

紋別港整備のために邁進した大西市長と古屋道議の名前が出てきました.紋別港のためにGHQに頭下げに行く前に,社会党紋別支部の設立というのもしていたようです.

 

この後,保守系市政になるのは,1969年のことです.

 

市長選では四四年、前助役菅原啓を擁して市制後初の保守市政を確立。また道議選では五〇年新沼浩を四たび候補に立てて宿願の初当選を果たした。

『新紋別市史 下巻』 p.182

 

自民系市長は菅原市政の後,金田市政,赤井市政と続きます.現在の宮川市政は民主党系です.

 

選挙の実績では、社会党時代の退潮ムードから回復傾向を見せ、特に一七年六月の市長選挙では宮川良一候補を推薦、現職の赤井邦男候補を破ったのが特筆される。(略)一八年四月現在の党員数は二〇人で、事務所は一五年から本町六丁目に構えている。

『新修紋別市史』 p.368

 

民主党の本部は本町6丁目に移っていたようで,今はこの建物は立憲民主関連では使われていない可能性が高いと見ています.

 

 

郵便受けがあったので見てみると,民主党だけでなく,連合や北教組の名前が見えます.ツイートでは教育委員会とありますが,そんなわけはなく,普通に間違えていて,自明に北海道教職員組合の略です.アベちゃんが「にっきょーそー」って言っていたやつの北海道のやつです.教育委員会は多分市役所とかにあります.

 

 


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いろんな旧社会党系の組合がここにかつて入っていたのだろうということがわかります.ただ,郵便受けにガムテープが貼ってあることからもわかるように,現在はあまり使われていないようです.中を覗くと,連合のマスコットキャラクター・ユニオニオンが置いてありました.いつから置いてあるのでしょうか.

 

 

現在は立憲のポスターが貼ってありますが,ストリートビューで2015年の写真を見ると,民主党のポスターが貼ってあります.まだ民主党のときは連合が生きていたのかもしれませんが,いまはどうなのでしょう.

 

 

労働福祉会館を過ぎて海岸通りまできました.使われてない倉庫が商店の跡が並びます.「平和鶴」とありますが,何の業者だったのでしょうか.日本酒みたいな名前をしているし,もしかしたら酒蔵もあったのかもしれません.

 

 

本町の通りの方に戻ってきました.

 

 

明治期に遊郭があったのはこのあたりみたいです.今はぼろぼろで歪んだ崩れそうな建物が建っています.かつてここにあったのは北見楼という料理屋だったようです.表向き料理屋というのは,同様のものが現在でも飛田新地に残っているみたいな話もあるので,そういうのだったのかもしれません.それはそうとして,この紋別通運という業者は今でもあるのでしょうか.

 

その料理屋「北見楼」は遊郭も併営し、明治三十六年頃まで本町二丁目に存在したが、その後弁天町三丁目(竹本ハツさん宅向い空地と思われる)に移転したらしい。

「さよう、木村(nymwa注:料理屋の親分)はうちの寺の檀家総代だったのでよく覚えている。木村が田中の所で経営していた北見楼は三階建だったよ。夜になると十四、五人の女郎が格子戸のところに並んでいたな。(大桃哲竜師談)」

『夜ばなし 紋別ものがたり(一)』 p.8

 

 

その建物のそばには,紋別町の道路元標がありました.よくこんなもんのこってんな,マジで,という気持ちです.「昭和四年建設 北海道庁」ということです.戦後も紋別バイパスが通るまで,ここが国道だったわけですが,戦前も交通の多い大通りだったのだということがわかります.

 

 

もうなんか一日中歩き続けてしんどいのではやくホテル帰りたいという気持ち.

 

 

写真で映っているところにも料理屋があったみたいです.

 

花月楼は現在の宮地薬局(本町二丁目)の所に玄関を新興写真店側(南向き)に向けて二階建で立っていた。

かっては女郎が三十人程も居たというから、その隆盛のほどを知ることができよう。格子戸の玄関を入ると左側に女郎たまり部屋があり女郎源氏名を書いた名札が下がっている。

『夜ばなし 紋別ものがたり(一)』 p.45

 

十字のマークがあるのが宮地薬局跡です.現地に行ってよくよく建物を見ると,店名の文字の跡が残っています.道路を挟んで奥の駐車場が,もともと写真店だったようです.今はヘアーサロンの駐車場になっているみたいです.

 

 

はよホテルつかんかなという気持ちです.

 

 

パールライス(農協がいろんな農家の米を混ぜて売ってる比較的安価な米のブランド名)のことを,かつて水晶米って言っていたっていうのは知ってるんですけど,いつからここにこれあるんですか? もう21世紀2割終わってるんだが?

 

 

徹カラしません.

 

 

HOKKAIDO BANK MONBETSU

 

 

徹カラしません.

 

 

ホテルに付きました.

 

 

2日目ももうすぐ終わりです.ぴよぴよ会も終盤です.

 

つづき

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第2回紋別ぴよぴよ会・落石峠

国道238号線から,貯水池の横の通路を通って行きます.

 

 

貯水池がありました.

 

 

国道から落石峠のあるところまで行く便利な道はなくて,ここを通るしかありません.結構急なので,雨が降ってたりすると危ないですし,あまり勧められるルートではありません.

 

 

雨が止みました.よかったです.

 

 

地理院地図で見ても,こちらが本来の峠という感じがします.国道の峠に見えたところは,切り通しのようです.ただ,道路があるところが峠っていう気もするので,どっちも峠という気持ちもします.

 

 

落石という語は,okcisというアイヌ語から来ています.okcisは鞍部を意味するようです.根室にある落石は峠ではなく,陸繋砂州ですが,たしかにこれも鞍部です.峠と陸繋砂州を同じ単語で呼ぶ言語の感性は非常におもしろいと思っています.

 

 

根室の落石にも行ってみたいですね.

 

落石山の南側斜面は墓園として利用されています.

 

都市計画の推進上、南が丘町二丁目、現報恩寺付近の紋別墓地が支障をきたすに至ったので、市は昭和三一年から「都市計画法」に基づき、失業対策事業で紋別墓園の造成に着手した。

この墓園用地として,紋別公園の背後にあり、市街を一望におさめる大山町四丁目六七五番地の市有林野内丘陵地五・八二ヘクタールを選定。

『新紋別市史 下巻』 p.1025

 

寺の境内だと狭すぎるということで,広い土地に墓園を作ったようです.南側が開けている斜面で,周りが山に囲まれているというのは,風水的にも良いのかなあという気もします.実際行ってみると,かなり景色がよく,この土地を選定した人たちの気持ちを推察できるところがあります.

 

 

墓苑じゃなくて墓園です.単語としての意味合いはそんなに違わないのかなという気はしますが,正式名称はちゃんとすべきだなあという気持ちになります.

 

墓園のほうを望むと,バイオマス発電所から白煙が,雲と見紛うように立ちのぼる姿が確認できます.木質バイオマスなので,クリーンなイメージが大事だと思うし,白くなるように努力しているんだとは思いますが,すごく目を引く存在です.晴れてるともっと見応えがあると思います.

 

あんまり人の墓をじろじろ見るのも気が進まないのですが,墓を見ると南無阿弥陀仏と書いてあるものが見られました.真宗の割合が多いのは日本全国でよく見られる傾向ですが,墓園全体を回って宗派の割合を推測するというのも,いずれやりたいなあと思っています.

 

 

北側斜面は花園浄水場として使われています.花園浄水場と貯水池が見えます.

 

 

浄水場です.浄水場を作るならちょっと標高が高いところがいいと思いますが,紋別市街は落石山で南北に分断されているため,峠の部分に浄水場を作るというのは,すごく理にかなっているように思います.墓場と浄水場を同じ場所に作るというのも,ちょっとよくない印象があるような気もしますが,北側斜面と南側斜面で土地の利用を変えているというのも,すごくよく考えられているように思います.

 

居住区域が広がり、水産加工場や船舶等の給水需要も増加すると、さらに施設の拡張が必要となった。しかし戦時下のひっ迫した財政事情などで施工に踏み切ることができず、時間給水制限などで急場をしのぎながら、戦後の昭和二二年(一九四七)に至ってようやく第二期拡張工事(工期一年)に着手した。

以後、給水人口と居住区域の拡大に対応するため、二六年から第三期(同六年)、四三年から第四期(同五年)、五五年から第五期(同九年)事業を施工した。

これによって日照りが長期間続く異常気象の年であっても水に悩むことのない、計画給水人口三万七二〇〇人の上水道設備が整った。

『新修紋別市史』 p.399

 

太平洋戦争の辺りの上水道供給事情はかなりきびしかったようです.1980年代になって,水不足にならないような状況になったようです。

 

昭和二二年から第五期工事が完工した昭和六三年までの実工事期間二一年にわたるこの上水道拡張整備事業で、特に特徴的なのは、第四期工事で水源を貯水力に限度のある水源地から、絶えず豊富な水をたたえる一級河川渚滑川本流に切り替え、取水した表流水を渚滑ポンプ場から約四二〇〇メートルの導水管で新設の花園浄水場(昭和四五年)に送り、極端な渇水期にあっても安定供給できる体制が実現したことである。

『新修紋別市史』 p.399

 

渚滑川の豊富な水を紋別市街まで引いてくることで,高い供給能力を実現したようです.衛星写真を見ると,ちゃんと取水口が確認できます.

 

 

取水口から,渚滑市街のポンプ場までは,自由落下で導水しているようです.導水路はどこを通っているのでしょうか?

 

 

さらに,ポンプ場から浄水場までは,4200メートルも水を汲み上げているわけです.これも,どこかすこしでも地上にでてる部分があれば,見てみたいなあと思います.

 

 

ところで,藻別川を水源としなかったのはなぜなのでしょうか? 紋別渚滑川と藻別川の間に市街が広がっているわけで,人が多く住んでいる部分は藻別川に近いところにあるので,少し不思議です.

 

第四期拡張事業終了直後の昭和四八年八月八日、閉山まもない住友金属鴻之舞鉱山の沈殿池が大雨で決壊し、沈殿池底層に堆積していたシアンが藻別川に流出して大量の魚が中毒死する事故が発生した。藻別川の伏流水を水源としていた元紋別地区の簡易水道(昭和三三年設置)は、シアン汚染で使用できなくなったため、市は簡易水道を廃止して、元紋別地区を紋別市街地の水道給水区域に編入することにし、四期工事で布設した花園配水区南が丘幹線から元紋別地区に急きょ約一四〇〇メートルの配水管を延長してこの年一二月、給水を復活させた。

『新修紋別市史』 p.399

 

もしかしたら,紋別市側は藻別川上流の鴻之舞鉱山による鉱毒の危険性を認識していたのかもしれません.鉱毒事故が起きたのは花園浄水場完成の後ですが,渚滑川の水を使ったというのはよかったのだろうと思います.この辺の事情も今後調べられたらよいなあと思っています.

 

 

今は改修工事が行われているようです.70年代からある設備だし,老朽化しているところも多くあるのかもしれません.

 

 

花園浄水場をあとにし,落石山の北側斜面を降りていきます.

 

 

つづき↓

(まだかけてません)

第2回紋別ぴよぴよ会・国道238号線

せせらぎ公園をあとにして,国道238号線に戻ってきました.落石山の北側をたどりながら,市街の方へと戻っていくつもりなのですが,その前に北海道といえば,あのラーメン屋なので,食べに行きたいと思います.

 

 

国道238号線を北へ進むと,落石町から渚滑地域に入ります.1954年の紋別町・渚滑村・上渚滑村の合併で現在の紋別市ができるのですが,この旧渚滑村の区域になります.

 

 

なんかもーてる的なのある.やってるんだろうか.

 

味の時計台に行かないのかという問いに関しては,北海道といえば味の時計台という点においては完全にそうなのだが,北海道といえばで北海道のラーメン屋に行くというのは必ずしも正しい選択ではないということを見落としていると思います.

 

 


www.youtube.com

 

くっせに〜 なるあじ〜 ら〜めんの〜 やまおかや〜

 

この曲は店舗で流れています.

 

 

山岡家は茨城で創業したみたいなんですが,店主が札幌でおいしいラーメンを食べて感化されちゃったらしく,北海道に本社を移転するなど,これはもはや北海道ローカルチェーンと言ってもよいでしょう.(それは嘘で,関東のほうが店舗は多いです)

 

 

食券機があったので,一番左上にあるボタンを押したら,しょうゆラーメンだったようです.これは本当にしょうゆラーメンなんだろうかという見た目をしています.濃い味が嫌いな人は行かない方がいいです.大岡山にもできてほしいですが,店舗の分布を見るとわかる通り,関東郊外と北海道にしかありません.大都会大岡山のおいしいラーメン店には敵わないということは,よく理解しているものと思われます.

 

 

 

 

国道を歩きます.ロードサイドの景色が広がっています.北海道でも沖縄でも,日本ではどこでも見れるものなのだろうと思います.紋別にもすき家はあります.

 

 

ここから国道238号線は落石山と紋別山の峠部分を超えていきます.実は,行きに通ってきた北浜町の道道305号線が国道の旧道にあたります.

 

紋別バイパス 網走市から稚内市に至る一般国道二三八号は、紋別バイパスが開通する平成六年まで、紋別市街中心部の本町商店街を縦断していた。乗用車の普及と貨物車の大型化によって交通渋滞をきたすようになり、積雪期には車道、歩道がせばまって交通事故の危険性も増し、加えて沿道の商店、民家からは排気ガス、騒音、振動など、環境の悪化を訴える声が聞かれるようになった。

『新修紋別市史』 p.759

 

たしかに,紋別市街の真ん中にこれだけの交通量があると嫌です.

 

昭和五一年、バイパスは元紋別の藻別橋付近の国道から分岐して大山のふもとを抜け、渚滑市街地に至る全長九四六三メートルの山回りルートに決定。建設工事は五三年から網走開発建設部紋別道路建設事業所によりルートを三工区に分けて行い、渚滑川の第三工区(渚滑町元新市道山の上線交点付近〜国道二三八号・二七三号交点、全長二七六三メートル)の用地買収から事業を開始した。六三年十一月、第二工区と第三工区(新生道道交点〜渚滑町元新市道山の上線交点付近、全長四四六〇メートル)が開通した。

『新修紋別市史』 pp.759~760

 

大体80年代ごろに,渚滑地域から紋別山の南側までの工事が進められたようです.1988年時点ではほとんど開通していたのですが,最後の区間の用地買収が進まず,工事は長引きます.

 

残る第一工区(元紋別藻別川〜新生道道交点、全長二二四〇メートル)は、一部の用地買収が手間取ったことなどで工期が長引き、平成六年(一九九四)完成を見た。この年一一月一日の開通式で念願の紋別バイパス全線の供用が開始された。着工から一六年を要し、総事業費は八八億円。バイパスが通過する大山、渚滑両町の住居専用地域には、エゾマツやレンゲツツジなどの植樹帯が設けられた。

『新修紋別市史』 p.760

 

 

この際に植えられたエゾマツやレンゲツツジも次回以降のぴよぴよ会で訪れたいと思います.

 

 

農協が見えます.「JAオホーツクはまなす」という愛称がついているみたいです.このような愛称の農協ができたのは,北海道の農業事情が背景にあります.

 

農家戸数の減少、農畜産物輸入自由化、さらに金融の自由化などが農協、農家経営に影響を与えた。こうした農業情勢から農協合併は重要課題とされた。平成六年の北海道農協大会で、「北海道新JA合併構想」が決議され、二〇〇〇年までに三七農協は合併集約するという大編成に向けて、各地区で取り組むことになった。

『新修紋別市史』 p.531

 

紋別市西興部村滝上町、上渚滑の四農協の合併について、地域農業の永続的な発展と組合員の営農と生活を守ることを第一義に、各事業部門の検討も重ねられた。(略)一三年三月一日、四農協対等合併によって新農協の発足を正式に決定した。新農協の名称は「オホーツクはまなす農業協同組合」(愛称JAオホーツクはまなす)とした。組合員三三四戸、販売高七七億八〇〇〇万円、貯金高一七〇億六〇〇〇万円であった。

『新修紋別市史』 p.532

 

昭和が終わり,平成の前半にかけて西紋地域の農協再編が行われたようです.なんでや阪神関係ないやろ.

 

 

雨が降ってきてつらいです.天気が悪いとつらいです.

 

 

歩くのは非文明で体に悪いので,なるべくなんとか耐えるためにトレッキングポールを使っています.それはそうとして坂が多いのでつらいです.

 

 

頭が悪そうな坂があったので,国道をはずれて歩いてみます.

 

 

 

この道路は,都市計画道路学園通という名前で,490メートルの未成区間があります.それだけでなく,行き止まりの謎の未成道もあります.地図で確認してみると,放置された道路の先には,道都大学紋別キャンパスの跡地があります.

 

 

昭和五二年(一九七七)三月、文部省の諮問機関である大学設置審議会(施設建設設備状況と教授の内容・学部学科について審議)と私立大学審議会(学校の経営・財政について審議)の両審議会が,かねてから設置申請が出されていた道都大学の設置について「可」と答申したことを受けて、文部大臣の認可が下りた。正式に開学が決定した道都大学はこの年四月、起工式を行い校舎の建設に着手した。

『新修紋別市史』 p.854

 

開学当初は福祉学部と美術学部があったそうです.しかし,財政状況の厳しさから,大学は撤退を考え始めます.紋別市は約7億円の財政的支援を行うなどし,存続への協議を続けましたが,うまくいきませんでした.

 

この間、市議会は、数度にわたる大学存続に関する特別委員会を開催して、存続に向けた対策の模索を続けている最中の八年二月、大学から学生支援予算を辞退するという文書を受けた。次いで三月、デザイン学科七八人、建築学科七一人計一四九人の卒業生を送り出して、美術学部はすべて北広島市へ移転した。

『新修紋別市史』 p.856

 

また,福祉学部も,市は10年にわたり28億の支援を行いますが,撤退してしまいました.

 

しかし、強まる一方の少子化傾向による入学者数の激減や、開学当初では予想ができなかった福祉系大学の乱立が、将来にわたり大きな財政負担を強いることとなり、そのことが撤退不可避の理由になったことは否めない。(略)道都大学の経営は時代の趨勢には抗しきれず、二七年の歴史と二四回、五三九九人(内女子八三六人)の卒業生を送り出し、平成一七年(二〇〇五)三月末日にその歴史を閉じた。

『新修紋別市史』 p.859

 

学園通りはとても広い道路なのに,自分が行ったときは,数分いただけではありますが,車が1台通っただけでした.

 

(nymwa注:大学協力会)会長横山登はその思いを『道都大学紋別キャンパスの設置が決まった時、市民は花火を上げて祝った。学生受け入れのために次々とアパート、下宿が建設された。学生のボランティア組織が市内各所、各施設で活躍してくれた光景。大学祭等で若さが爆発したシーン。あふれる笑顔。または悲しい交通事故。希望にあふれた入学式、そして卒業式。それらの光景が二七年分思い出されます。“東京からではなく、紋別から世界に発信を”を目標に北極星のような、希望に燃えた大学でした。』と綴っている。

『新修紋別市史』 p.860

 

 

もし道都大学が撤退していなかったら,この沢は道路の下に埋められていたのかもしれません.

 

 

国道に戻ってきました.落石峠に近づいてきています.

 

 

学園通はここで国道と接続する計画でした.

 

 

貯水池が見えます.自分の前を歩いていた散歩してるおばあさんはここから左に消えていきました.貯水池の横は徒歩で通れるようになっているみたいです.

 

 

国道の落石峠につきました.ここをもう少し行くと大山スキー場なのですが,さすがに雨でつらすぎるので諦めて引き返しました.

 

 

おばあさんが通って行った貯水池の隣の道を抜けて,国道ではなくて本来の落石峠の方へ向かっていきます.

 

つづき↓

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第2回紋別ぴよぴよ会

ぴよぴよとは,もふもふの対義語です.もふもふになるのではなく,ぴよぴよになることが,ぴよぴよ会の目的です.

 

4月に紋別〜網走に飛ばされたことで,オホーツク管内ぴよぴよであることが判明しました.ここから,オホーツク管内に飛ぶことをぴよぴよ会と呼ぶことになりました.4月に行ったのは,第1回紋別ぴよぴよ会ということになります.なお,ぴよぴよ会の名前は,羽田発航空便の到着空港の名前を用います.羽田ー女満別便で行き,紋別ー羽田便で帰る場合,これは女満別ぴよぴよ会となります.

 

ただ行って帰ってきただけでは,ぴよぴよ会が本当にぴよぴよであったのかがわかりません.ぴよぴよの真髄を全世界に公開するため,最初から最後まで写真と感想を添えてここで報告します.

 

今回のぴよぴよ会での行程を分類すると以下のようになります.書いていきます.

 

  1. 行きの大田区 (9/3 執筆)
  2. 羽田空港 (9/3 執筆)
  3. ANA375便 (9/3 執筆)
  4. 紋別空港線 (9/3 執筆)
  5. 紋別公園へ (9/3 執筆)
  6. 市役所の方へ
  7. 博物館とふぇるさん
  8. ホテル2日目朝 (9/9 執筆)
  9. イオン紋別店 (9/9 執筆)
  10. 弁天岬
  11. 弁天町真砂町 (9/9 執筆)
  12. 北浜町 (9/9 執筆)
  13. 北浜緑地と南4号線
  14. 山の上通とせせらぎ公園
  15. 国道238号線  (9/4 執筆)
  16. 落石峠 (9/4 執筆)
  17. 落石町3丁目
  18. 潮見町
  19. 夜の紋別市街  (9/5 執筆)
  20. ホテル2日目夜 (9/5 執筆)
  21. ホテル3日目朝
  22. 朝の紋別市
  23. バスターミナルと氷紋の駅
  24. 紋別空港 (9/6 執筆)
  25. ANA376便 (9/6 執筆)
  26. 帰りの大田区 (9/6 執筆)

 

≡>ω<≡ ≡>ω<≡ ≡>ω<≡

第2回紋別ぴよぴよ会・紋別公園へ

バスターミナルに荷物を置いて,紋別公園へと向かいます.

 

 

バスターミナルのすぐ北にはメモリアル通り,旧名寄本線跡があります.バスターミナルは旧紋別駅の跡地に作られているのです.

 

 

さらに一本北に行ったところに,鴻紋軌道の跡があります.名寄本線紋別駅を出て海側を通っているのとは異なり,山側を通り,鴻之舞まで伸びていたそうです.

 

 

鴻紋軌道を歩きます.ツイートではメモリアル通りと言っていますが嘘です.途中,林業会館があり,中に何が入っているか見たら,木材協同組合はともかく,日本棋院が入っていました.将棋の駒や盤を作っていた業者もあったのかもしれません.今は木材の買い付けもしておらず,運良く生き残った数社の企業の組合が惰性で残っているだけという感じです.

 

紋別木材協同組合 戦後、造材、製材業者らで設立した紋別地方林産組合を昭和三五年十二月、「協同組合法」に基づいた制度上の融資などを仰ぐことのできる紋別木材協同組合(組合員一八社)に改組し、三九年(一九六四)一月、紋別林産協同組合(一二社)と統合した。

林産加工業の停滞で昭和五〇年代までには一〇社に漸減。平成に至ってさらに一一年(一九九九)までに五社廃業や事業所移転などで退会した。このため主業務としてきた公有林の共同買い受けも年々数量が減少し、平成一三年度以降は買い付け皆無となった。その後の業務は、内部的には組合員に対する業務指導、情報提供、各種事業の企画などと複数の林業関連団体の事務局業務、対外的には各種の受託業務を主としている。組合所有の林業会館(花園町二)に事務所をおいている。

『新修紋別市史』 p.576

 

 

鴻紋軌道跡をあとにして,駅前通りをさらに北へ進んでいきます.坂が多くて困ります.ゴミ捨て場の写真を撮っていますが,熊よけの観点から本州とは違う仕様になっていることが確認できます.

 

 

共産党の委員会がありました.

 

昭和二〇年一〇月、住友武など数人により日本共産党紋別市細胞が結成された。二五年五月一日のメーデーに初参加して「食糧よこせデモ」を組織したのもこの年である。

『新紋別市史 下巻』 p.185

 

昭和二九年以来、地区委員長を務めた篠田晴雄が平成六年に勇退、その後を野村淳一が引き継いだ。

『新修紋別市史』 p.369

 

細胞から委員会へと名前が変わるのが確認できて面白いですね.野村淳一さんは今も共産党の地区委員長兼市議をしているようです.紋別は日本のよくある地方都市の例に漏れず共産党の人気はないみたいで,野村淳一以外に共産党議員はいないようです.

 

 

キリスト教会とそれ系の幼稚園が見えます.奥に見えているのは多分,聖マリア海の星教会というので,別のところにも聖マリア協会があり,どちらにも幼稚園があります.

 

 

紋別は,山と海に囲まれた街で,見る方向を少し変えるだけで全然違う景色が見えます.すごくいいです.しばらく歩くと,落石山東側のふもとに,お寺と神社が見えてきます.

 

 

厳島神社の話を詳細に書くととても長くなるので,これはまた別の機会にまとめます.厳島神社の移転の話や,石碑の話などで,多分1〜2万文字は書けます.時間ないです.建物の装飾や狛犬のなんか躍動感が特徴的です.

 

 

南側に行くと,オホーツク庭園の入口があり,さらにその先には光源寺があります.

 

真宗本願寺派北海山光源寺 昭和五六年四月、客殿、対面所、庫裏を改修し、一〇月に開創九〇年記念法要を執行した。平成元年四月光源寺仏教壮年会を結成し、諸活動を行っている。

『新修紋別市史』 p.1136

 

きれいな建物でした.

 

 

厳島神社の方に戻ってきて,庭園の方に行こうとしたのですが,雨が強すぎてつらく,このあと弁天岬に行ってコーヒーを淹れるとかいうのやりたくないなと思っていました.

 

安政年間に,紋別御用所にオランダから出島を通じて入ってきたコーヒー豆が届いて,それを飲んだという記録が残っているみたいです.紋別市教育委員会生涯学習課が紋別コーヒーの作り方を紹介していたので,ぜひとも,紋別御用所があったあたりでこれをやりたいなあとおもっていました.細かいやり方は動画を参照してください.

 


www.youtube.com

 

紋別御用所があったのは港湾事務所のある弁天町なので,ちょっと遠いし,屋根のある場所もなさそうなので,もう厳島神社でやっちゃおうかと思ったわけです.

 

 

やってしまいました.こぼすと染みになったりしてよくないし,別のところでやるのをおすすめします.

 

 

オホーツク庭園に来ました.滝がきれいでした.

 

ほかに花園町の旧石切場跡にやはり一〇〇年記念事業としてオホーツク庭園を造成中である。

『新紋別市史 下巻』 p.221

 

紋別市史の時点では,造成中ということになっています.

 

オホーツク庭園は五年の歳月と二億七〇〇〇万円の事業費を投じて昭和五八年(一九八三)七月、公園南斜面の石切り場跡に造成された。石切り場は紋別港建設(大正一二年〜昭和三二年)の石材を切り出した跡地で、高さ二〇メートルをこえる断崖がそそり立つ。

『新修紋別市史』 p.392

 

紋別港築港のための石材の石切り場の断崖を公園に利用したということで,非常に良い試みだと思います.

 

石切り場では昭和20年代に,ダイナマイトを爆発させ,砕石していたようです.厳島神社の中で撮った写真に,「故中尾学君殉職之碑」というのがありましたが,砕石作業中の事故で亡くなったということのようです.

 

中尾学氏の殉職事故があった昭和二十八年、私(著者・小野)は十一歳で小学校五年生でした。この石切り場のことを我々花園町に住んでいた者は「石山」と呼んでいましたが、(中略)石山付近は絶好の遊び場であり、石切り場でさえ“ロック・クライミング”を楽しんだ場所でもありました。しかし何と言っても恐ろしかったのは何時間か置きに石を崩すために使うダイナマイトの爆発と、降りそそいでくる岩石の雨でありました。

この日も私達花園町の子供達は、うっすら積った雪の中、小高い丘で遊び回っていた。その時、発破(ダイナマイトのこと)の爆破を告げるサイレンが鳴り、私達も木の陰や野外劇場の床にもぐり込んで避難しました。五回ほど爆破するのがいつもの例と記憶していますが、この日はいつもより爆破の回数が少ないように思いました。変だナアと思いながら木の陰から出て、しばらく遊んでいると、突然“ドカーン”と鳴り我々はビックリして顔を合わせました。あとで聞くと、最後の一発が爆発していないので、点検に行った中尾氏が、仕かけた場所に近ずくと同時に爆発したという(当時聞いた記憶)。そのうちの岩の一片が中尾氏に直撃し、即死状態だったということです。(略)

当時,石切り場から五百メートル離れた我が家にも、時々医師の破片が降ってきました。あるときには、直径二十センチほどの石が屋根をつき破り、居間に激しい音を立てて落ちてきたこともありました。

紋別石碑散歩』 pp.59~60

 

昭和だなあと思います.

 

 

滝はきれいでした.紅葉の季節はもっときれいってどこかに書いてありました.

 

 

潮見緑園通りの良さについて語っています.潮見町は名前の由来でもあるんですが,海が大変にきれいに見えます.潮見緑園通りは,緑道として整備されていますが,この一番標高が高い部分からの景色はすごく良いです.雨だったのでいまいちですが,晴れてるともっといいと思います.紋別公園からちょっと歩くと来れるので,ぜひ来ましょう.

 

緑園終端のちょうど北側に武徳殿という道場があります.大きくてきれいなたてもので,柔道場って感じがします.

 

武徳殿 少年、一般の柔剣道の練成は紋別警察署の演武場を借りて行っていた。青少年の健全育成助長のため、独立した道場の設置が望まれるようになり、四〇年(一九六五)二月、紋別武道館建設期成会(会長・松崎隆一紋別剣道連盟会長)を設立して道場の建設を計画したが、たまたま鴻之舞鉱業所の厚意で「光風殿」の寄贈をうけ、四一年一一月、藤田建設の手で潮見町四丁目に移転、復元した。移転改修費九〇〇〇万円のうち五〇〇〇万円は期成会、四〇〇〇万円は市が負担、市教委の管理運営とした。

『新紋別市史 下巻』 pp.849~850

 

外から見ると北側に弓道場は見えますが,剣道と柔道ができるのかはよくわかりませんでした.直接窓から覗けばよかったかもしれませんが,nymwaさんはみなさんご存知の通り圧倒的に常識人なので,そのような行為はしませんでした.こんど行った時に覗こうと思います.

 

 

潮見緑園通りから紋別公園に向かっていきます.

 

 

紋別公園に来ました.紋別公園は,落石山の頂上にある公園で,紋別市内を一望できる場所です.

 

 

だるまさんがころんだは奈良県のどっかのお寺が発祥の地なんですが,じゃあ終焉の地がどこかと言われたら,まあ明らかに紋別なわけです.なので,紋別オホーツク海とだるまさんがころんだをするわけです.

 

 

行ったら一面にカラスがいたのですが,自分が紋別公園の展望台のあるところまで行くと,みんなどっかに行ってしまいました.多分,紋別公園のあたりにカラスがいっぱい澄んでいるんだと思います.

 

 

紋別公園です.いやほんとに景色がいいので,みんな来てね.

 

 

「第一回紋別公園でオホーツク海とだるまさんがころんだ」です.新しい紋別の流行りになることは間違いありませんが,自然とだるまさんがころんだをするのは精神の探求としての側面が強く,必ずしも容易に人に勧められるものではありません.いい歳して人とだるまさんがころんだをするのも,どうかと思うので,やっぱりやらないほうがいいかもしれません.

 

紋別公園で,nymwaさんと一緒にだるまさんがころんだをしてくれる人,いたら教えてください.泣きながらだるまさんがころんだをしますし,ご飯を奢る蓋然性は相当程度に高いです.

 

 

展望台みたいなのがあるので,登ってみました.紋別市街,紋別港が一望できます.紋別市の地理を把握しやすい場所でもあるので,いろんな意味で良いところです.

 

大山団地の東側9棟が未成なんですが,これどうなってるんでしょうか.どういう計画か調べてもよくわからないです.

 

 

紋別公園から見ると紋別港の全容がよくわかります.紋別港の計画の策定には,初代副市長を努めた官尾貫一など様々な人たちの尽力がありました.まじめなはなしとか言いながら細かい部分で嘘ばっかり言ってるので,もうすこしまじめに書きます.

 

昭和二十年八月十五日、太平洋戦争は日本の無条件降伏でついに終結した。(略)こうしたなかにあって人々は、まず目前の食糧を欲した。(略)必然的に国民の眼は海に向けられた。(略)オホーツク海沿岸の中心部に位する紋別港は、国内蛋白質資源供給に重要位置を占め、年間六万トン余の水揚げを示して需要の期待に応えた。需要が多くなるにつれて在港漁船数は増加し、また沿岸から沖合進出に伴なって大型化した漁船を収容するために、港湾拡張の必要に迫られた。

戦後の紋別港湾拡張運動が本格的に開始されたのは昭和二十二年十月ころからであるが、これよりさき昭和十二月二十七日、大時化が紋別港を襲った。(中略)この時化のもたらした最大の被害は、激しい風雨が港外の漂砂を港内に運び、肝心の港内水深をマイナス二メートルにまで埋めてしまったことである.このため漁船の出入港にはなはだしい支障をきたすにいたった。

紋別港湾拡張の急務は期せずして、業者間に高まってきた。(略)翌二十一年にいたり、町理事者は業者の要請に応じて、道庁土木港湾課見上春雄技師に紋別漁港拡張計画の設計を依頼するとともに、実現運動を展開した。

紋別市史』 pp.1024~1025

 

戦後復興のため,紋別町は第一次港湾拡張計画を策定します.

 

すなわち現有船入間の南方接続公有水面を南堤先端まで約一二万平方メートル埋め立てて、この岸壁からさらに沖合に向けて幅員五〇メートルないし七五メートル、延長一〇〇メートルの係船岸壁三本を並行に築設する。(中略)南堤先端から当方の北防波堤先端まで延長約八〇〇メートルの防波堤を築き、陸岸船澗を半円形に囲う。さらに、港内水深を平均七メートル前後にまで掘り下げて二〇〇〇トン級の貨物船の入港を可能とし、(中略)将来の発展にそなえるという案であった。

『新紋別市史 上巻』 p.903

 

かんたんに言うと,防波堤を伸ばして囲って,港の底の土砂を取り除いて大きな船を入れられるようにしようということです.

 

昭和二十二年四月の首長公選初の選挙により、初代公選町長に大西真平が選ばれたのを機会に、大西は女房役をもとめるに際して「人格、識見ともに道庁の課長あるいは支庁長クラスの人物を」という条件で、人選を旧知である時の道議会議長坂東秀太郎に依頼、そのあっせんで、当時日本人造石油の総務部長であった官尾貫一が、招かれて同年六月助役(nymwa注:助役は副町長・副市長と同義です)に就任した。官尾は永らく道庁にあって、十五年余を拓殖計画一筋に暮してきた生粋の拓計畑出身で、道内の河川、港湾も数多く手掛けてきただけあって、さすが、その道には明るかった。

助役に就任した官尾が、まず着目したのは港湾であった。(略)さきの第一次計画案の再検討を開始した。

紋別市史』 pp.1025~1026

 

戦後,選挙で町長が決まり,副市長には港湾にくわしい人が就任しました.官尾は第一次計画をやめて,第二次計画を作ります.

 

官尾が計画をねり直すにあたってえがいた構想は、オホーツク海の中心的立地条件を大いに生かし、対外的な大海運港をめざすため、元紋別付近までを将来の港湾拡張地域に組みいれるというスケールの大きなものであった。こうした見地から見上案(nymwa注:第一次計画のこと)をながめると、差しあたって必要な港湾施設の拡張に異論はないにしても、南防波堤約八〇〇メートルの築設によって南西を囲ってしまうことは港湾拡張の範囲を限定し、将来の拡張に問題を残すばかりでなく、在港船を激浪の危険から守りうるかどうかの(原文ママ,おそらく「も」)心配であった。

『新紋別市史 上巻』 p.904

 

計画ができたようです.

 

拡張計画はどうにか出来上った。つぎはこの計画をいかにして実現させるかという段階である。拡張運動はすでに昭和二十一年から開始されてはいたものの、基礎となるべき第一次計画そのものが、はなはだばく然としたものであったため、運動の第一次段階である道当局でさえも、全然受付けず、まして中央に反映することなどは、まったく相手にもされず「一体紋別とはどこにあるのか」と、地図を虫眼鏡を前にして、からかうような応待を受ける始末で、港湾拡張どころか、まず紋別なるものを、お役人に認識させることが先決問題であった。

紋別市史』 p.1028

 

紋別なんて中央のひとは知りません.

 

せめて現地の事情を説明するだけでもと、対策を協議中のところへ現れた仲介者が、紋別出身の道議古屋正気である。(中略)古屋は,土木部長池田一男(後の北海道開発庁次官)を呼び、事情を聴取するとともに、倉敷港湾課長を現地に派して実情調査させるなど、運動の促進に目ざましい活躍と協力ぶりをみせた。当時運動員に随行していた町土木課長田中保治(現市建設部技術長)は「道当局があくまで渋っているのも構わず、まったく強引ともいえるやり方で道庁の首脳部を説きふせ、調査の段階にまでこぎつけたことは、古屋さんの政治力であり、その真剣な努力と協力には感謝するばかりだ。実際、古屋さんの助けがなかったら、紋別港の現勢はどうなっているか判らなかっただろう」と追憶しているが、古屋こそ紋別港湾拡張計画に最初の端緒を与えた功労者といえよう。

紋別市史』 p.1029

 

道庁となんとか話をつけることができたようです.

 

つぎは中央に対する予算獲得折衝であるが、(中略)大西町長が老体をひっさげて陣頭に立ち、十二月上旬官尾貫一助役、笠井町議らが古屋道議と同道、急遽上京の上、池田土木部長と打合せて関係官庁との折衝を開始した。(略)当時占領下の日本では、国内政策の何一つを決めるにも一々連合軍総司令部(G・H・Q)の承認を必要とした時代である。(略)運動委員の一行は、百方奔走の末経済関係担当官ミーラ某に面会することに成功した。(略)国内の食糧事情かん和を理由に、オホーツク海漁業資源の活用を力説した結果、検討資料として「紋別港湾経済調書」の提出を命ぜられた。

紋別市史』 pp.1029~1030

 

GHQに計画書を出せと言われました.

 

しかし獲得できた予算は二三年度九〇〇万円、二四年度六〇〇万円、二五年度九三〇万円、二六年度一〇〇〇万円といずれも期待に反するものであった。(略)この間に施工された工事は(中略)計画に対して、一〇%にも満たぬ進捗率であった。

『新紋別市史 上巻』 p.908

 

お金は足りませんでした.

 

年間一〇〇〇万円に満たぬ予算で拡張工事の進行もはかばかしくなかった昭和二五年六月、専任の大臣を長とする北海道開発庁が発足、翌年から北海道漁港修築費は北海道開発事業費として開発庁に計上されることとなった。(中略)紋別、浦河、岩内など二五港は港湾に区分され、港湾法にもとづき北海道総合開発計画のもとで強力に整備推進されることとなった。

『新紋別市史 上巻』 pp.909~910

 

もうなんか書くのめんどうなんですけど,北海道の開発計画にうまくのって,お金を出してもらえるようになりました.これが1950年の話です.この,北海道総合開発計画に基づき,紋別港湾整備計画がたてられました.紋別港湾整備計画は平成八〜一四年の第九次まで続けられ,現在の弁天岬から元紋別地域までの壮大な港湾が完成します.詳しいことは新紋別市史と新修紋別市史を読んでください.

 

次は,紋別公園をあとにして,市役所・博物館の方へと向かいます.

 

つづき

まだかいてません

第2回紋別ぴよぴよ会・紋別空港線

紋別空港からバスターミナルまでは,紋別空港線という名前がついています.北紋バスが運行しているらしく,空港から先は,紋別ー湧別ー遠軽間の路線と大体同じ場所を走りながら,市街へと向かいます.

 

 

バスにのる人は少なかったです.バスで市街に行く人より,紋別タッチをする人のほうが多そうだし,他の人もレンタカーを借りたりしていました.さらに,羽田から紋別に来る人にくらべて,紋別から羽田に帰る人は異様に多く,なんかよくわかりませんでした.一体紋別になんの需要があるんだという気持ちになりました.

 

 

結局,バスにのっていたのは,自分,高齢老夫婦,高齢一人おじいさんの計4人でした.運転手を入れるとかろうじて5人です.おじいさんは遠軽の観光案内を読んでいました.人生楽しそうでいいと思います.ただ,オホーツク管内は移動が大変なので,がんばってほしいという気持ちになります.

 

 

行きの飛行機はかなり早くついてしまったようで,バスがでるまで10分ぐらい待ちました.本来なら飛行機が着いてすぐ出てしまうので,紋別空港線を利用する人はあんまり空港でゆっくりしてると,市街まで数キロ歩くか,2時間バスを待つことになってしまうので気をつける必要があります.

 

 

バスが出ました.紋別空港がある小向地域から,まずは元紋別地域へと向かいます.元紋別地域は藻鼈川の河口付近で,もともとはアイヌの人は,今の市街域であるトマリオロではなく,こちらにより多く住んでいたそうです.紋別市史によると,紋別場所は当初,元紋別地域にあったらしく,そのあたりの事情から「元」と付いているのかもしれません.

 

藻別川 紋別の地名の発祥の地で、昔の紋別場所はここにあった。

紋別市史』p. 88

 

 

紋別地区に来ると,家が見え始めます.JR名寄本線紋別駅の跡地には,紋別市内のバスを運営する北紋バスの本社があり,バスがたくさんとまっています.藻鼈川の写真を撮影し忘れたのですが,かわりに交通安全の碑を撮影することができました.

 

 

交通安全の碑は『誓いの塔』という名前で,1997年に紋別地区交通安全協会により建立されました.(https://mombetsu.jp/soshiki/kyouiku/syougai/news/files/tokkari14gou.pdf

 

国道239号線と旧名寄本線跡の道路が交差する場所にあり,交通安全って感じがしてとてもよいです.

 

 

紋別地域から南が丘までくると,いろんな公共施設が見えるようになります.

 

最初に見えるのは,プールで,すごく大きいです.

 

健康プール オホーツク海は冷涼な気候のため、夏でも水温がさほど上昇しない。海浜を有しながら、海水浴の機会も少ないため、水泳関係者などは早くから年間を通して水に親しみ、健康の増進も図れる施設を求め続けてきた。この要望を受けて紋別市は平成二年一二月二三日、流氷科学センターとあわせて健康プールを建設した。

(略)

施設には、日本水泳連盟公認の二五メートル(七コース)プールのほか、温水の流水プール、全長八六メートルと三五メートルのウォータースライダー、屋外プール、サウナ、二階には各種マシンを揃えたトレーニンググルーム、レストランを備えている。開館当時は網走管内でレジャー設備も備えた総合プールは紋別市が初めてであったため、近郊からも利用者が相次ぎ、ピーク時の平成六年(一九九四)度には利用者は九万七六〇〇人と一〇万人台にあとひと息と迫った。

『新修紋別市史』 p.660

結局,10万には達しなかったらしいです.市内の小中学校の水泳の授業はこのプールでやるらしい.いいはなし.

 

プールのとなりには流氷科学センターがちょっと見えます.

 

北海道立オホーツク流氷科学センター 流氷や海洋の科学的知識を一般の人にわかりやすく、楽しく学んでもらう施設として、北海道が元紋別の流氷ワールド「ガリヤゾーン」に建設し、平成三年(一九九一)二月二日開館した。この日の落成記念式典には常陸宮殿下、妃殿下も臨席され、テープカットを行った。

『新修紋別市史』 p.658

 

バスはプールの横を通り,海へと下っていきます.海辺には海洋公園ととっかりセンターがあります.

 

オホーツクとっかりセンター 「ゴマちゃんランド」の愛称で平成一一年一一月、元紋別の海洋公園に開園した。とっかりはアイヌ語でアザラシのことを指す。オホーツク海にはゴマフアザラシなど五種類が棲息し、愛くるしい姿は「オホーツク観光ライン」のシンボルマークやガリンコ号のキャラクターにもなっている。

(略)

平成一五年の「鳥獣の保護と狩猟の適正化に関する法律」の施工で、それまで法の対象として扱われていなかったアザラシ、ジュゴンニホンアシカ海棲哺乳類も、適正に保護繁殖が図られるようになった。アザラシに限らず、海棲哺乳動物を保護している施設は全国でも紋別だけである。

『新修紋別市史』 p.662

 

海洋公園の白い砂はベトナムから持ってきたらしいです.いいはなし.

 

ホワイトビーチ 紋別港が小規模だった昭和二〇年代までは、駅前通りをくだった海岸右手の通称「前浜」が海水浴場で、港まつりのころには海岸はイベントや涼を求める人たちで賑わうの常であった。港湾の埋め立て整備で市営海水浴場は、昭和三二年に南が丘五丁目地先の岩場の多い海浜に移ったが、港湾の拡張がさらにこの海岸にも及ぶようになって昭和六二年(一九八七)夏を最後に市営海水浴場は閉鎖された。

この海水浴場に代わる施設として元紋別の海洋公園に造成されたのが、人工海水浴場のホワイトビーチである。四億八〇〇〇万円の工費で平成七年(一九九五)着工,一〇年七月仮オープンし、翌年五月全面オープンした。(略)浜に敷き詰めた砂は、ベトナムのカムラン地区産の珪砂といわれる白い石英の粒で、約八〇〇〇トンを船で運び込んだ。ホワイトビーチの名はこの砂にちなんだもの。

『新修紋別市史』 pp.661~662

 

バスは海洋交流館に立ち寄ったあと,また南が丘へと戻っていきます.その際に,バイオマス発電所の白い煙が大きく立ち昇っているのが見えます.2016年末に営業運転を開始した当発電所は,オホーツク地域の林業を背景に,未利用木材を主燃料とした木質チップによるバイオマス発電を行っていて,50MWの出力を持っており,一般家庭6万5千世帯の電力を賄うことができます.当初は200MW規模まで拡大する予定だったらしいんですが,計画は進んでいないみたいです.

 

紋別〜南が丘の港湾地域の整備には,80年代の流氷研究国際都市構想が大きく関係してきます.今回は深堀りしませんが,次回以降のぴよぴよ会では,このあたりの地域を訪れ,ちゃんと書いていきたいと思います.

 

 

南が丘の海浜地域をバスが一通りまわった後,バスはまた南が丘の崖の上に登っていきます.旧名寄本線跡のメモリアル通りを進んでいきます.

 

 

南が丘地域を進むと,創価学会紋別会館が見えます.きれいな建物です.

 

創価学会紋別会館 (創価学会の説明略)紋別市にも昭和三〇年代から会員が増して活動も活発となったので、創価学会日蓮正宗の教義に基づき儀式、行事を行い、会員を教化育成するための紋別地域の会場・拠点に供するため、四三年「創価学会紋別会館」を創設し、四月入仏式を行い、学会員の活動はより組織的になり活発となった。

『新紋別市史 下巻』 p.1195

 

この当時の創価学会の会館は南が丘ではなく,緑町にあったみたいです.

 

創価学会オホーツク正義圏 紋別での活動は昭和三〇年代が始まりとされ、次第に会員も増加し、五〇年代に入り組織の改変と名称変更が数度にわたって行われている。(略)平成四年一二月、紋別本部が名称をオホーツク圏とし一圏二本部(紋別遠軽)に変更された。一〇年一一月、再度遠軽と分離しオホーツク正義圏となり、ゾーンは西紋五市町村と変わった。この間、昭和六二年二月、それまでの緑町四丁目の旧「もんべつ会館」を廃止し、南が丘町七丁目に「新会館」を建立し会員の活動に備えた。

『新修紋別市史』 p.1144

 

正義圏とかきらきらねーむだと思うが,いろいろと理由があるらしい.昭和30年代に学会員が増えたみたいだけど,当時はまだ創価学会日蓮正宗から独立はしてなかったので,日蓮正宗のお寺はどうなってたんだという気持ちなんだけど,ちゃんとできていたらしい.

 

妙立寺 創価学会紋別にも及んで、日蓮正宗の信者の増加をみるようになったのは昭和三〇年代のことであった。しかし紋別には同宗の寺院がまだ建てられていないため、上川郡愛別町から法務一切を行うための出張を仰いでいた。

四〇年代にはいって信者も急激に増加し、寺院建立の要望もまた高まった。この要望がかなえられ、総本山大石寺によって、昭和四八年富士大石寺静岡県富士宮市)の末寺として、約三四〇平方メートルの堂宇が建立された(大山町一丁目)。

『新紋別市史 下巻』 p.1180

 

せっかく日蓮正宗のお寺を1973年に作ったのはいいけど,ちょうどそのころ1974年から創価学会日蓮正宗の脱退を画策(通称「北条報告書」)していて,1991年には破門されてしまうわけなんだけれど,その前にお寺を作っちゃったということで,なんとも言い難い気持ちになれます.

 

ちなみに,なぜか創価学会の会館の道を挟んで隣に,自民党紋別支部と武部新紋別後援会があります.武部新は衆議院議員で,父親の武部勤農水相・幹事長経験者で,牛肉レポーターとしての実績が広く知られています.

www.jcp.or.jp

 

南が丘に自民党支部が移ったのは割と最近のことみたいで,新修紋別市史の時点では,花園町にあったみたいです.

 

支部の事務所は、昭和四五年から幸町五丁目のトミオカ商会の建物を間借りして入居していたが、五八年に幸町一丁目を経て幸町四丁目に移り、平成一一年まで支部の拠点としていた。さらに、衆議院小選挙区比例代表並立制が導入されたことに伴い、道第一二選挙区支部長も兼ねる武部勤衆議院議員の後援会事務所と合同し、同年六月一五日、花園町二丁目に移った。

『新修紋別市史』 p.367

 

次に見えるのは,オホーツク紋別球場です.

 

 

オホーツク紋別球場 市営球場の建設は市制施行前にさかのぼる。昭和二七年(一九五二)、国体軟式野球全道大会誘致を契機に公設球場建設の機運が高まり、佐藤貞助所有の南が丘町七丁目の土地の提供を受け、同年八月、急造ではあったが、七四〇〇人収容の市営球場が設けられた。(略)四四年七月には内外野合わせて二万人収容の日本硬式野球連盟公式基準に適用する二万二一六〇平方メートルの球場が完成した。(略)平成一〇年度を初年度として既施設の撤去と、新球場の建設工事が施工され、備品整備事業など含め一四年度までに、総事業費一五億六二三二万五〇〇〇円の工費を投じて完成した。一五年五月、名称も「オホーツク紋別球場」と改められ、五月三一日、オープン記念式を行い完成を祝った。

『新修紋別市史』 p.903

 

地理院地図の衛星写真でも,球場の向きや大きさが変わったことが確認できるため,昭和44年改築と平成15年新築が確認できます.

 

 

南が丘4丁目・3丁目と進むと,次第に丘の部分が終わり,オンネナイ川へと下っていきます.

 

 

オンネナイ川を超えると,南が丘町は終わり,港町に入ります.紋別プリンスホテルが見え,津波の浸水想定域の看板がいろんなところで見えます.

 

 

海沿いには鉄工所がたくさん見えます.鉄工所が多い理由はちょっとあんまり理解していません.

 

 

遠紋党という謎の地域政党のポスターを至るところで見ます.どうも,写真にもちょっと写ってる新沼透という議員が所属しているようで,この議員は新党大地や維新の党の推薦も受けているため,維新系の政党ということのようです.維新は自民党の2軍なので,自民党から追い出された組という感じがします.新沼透の父,新沼浩も,息子と同じく道議を歴任していたため,世襲のようです.新沼浩は道議を6選した後,勇退しますが,直後の平成11年第14回道議員選挙で,自民党の公認を得ながらも息子・透は,民主推薦の井上真澄に敗北し,落選します.その後しばらくは立候補しなかったようですが,平成27年・31年と立候補し,2期当選を果たしています.この間に何を思ったのか設立したのが,遠紋党なのだと推測されます.

 

 

バスは長らく海岸通りを進み,紋別バスターミナルの方へ左折します.この際,紋別港の第一船入間が見えます.ふないりまとかいう語,「ま」の字がめんどくさくて,間で書きます.漢字廃止.ちなみに,第二船入間は,先程ホワイトビーチの話で出てきた「前浜」のところにできています.

 

 

紋別は坂が多く,海から何段も海岸段丘ができています.バスは段丘をいくつか上り,駅前通りを進み,バスターミナルへと入っていきます.駅前通りといっても,名寄本線は廃止されたので,紋別駅はありません.

 

バスを降りた瞬間は寒いなと思ったのですが,歩いて汗をかくと湿度が高く,むしろ暑く感じました.上着は持ってきていたのですが,全く使いませんでした.

 

 

バスターミナルに荷物をおいたら,次は紋別市内を歩きます.1日目は紋別公園に行く予定だったので,そこを目指します.

 

なんかこう,いろんな資料を調べながら書くのつらいので,誰か代わりにやってほしい.一生終わる気しない.

 

つづき

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