第2回紋別ぴよぴよ会・紋別空港線

紋別空港からバスターミナルまでは,紋別空港線という名前がついています.北紋バスが運行しているらしく,空港から先は,紋別ー湧別ー遠軽間の路線と大体同じ場所を走りながら,市街へと向かいます.

 

 

バスにのる人は少なかったです.バスで市街に行く人より,紋別タッチをする人のほうが多そうだし,他の人もレンタカーを借りたりしていました.さらに,羽田から紋別に来る人にくらべて,紋別から羽田に帰る人は異様に多く,なんかよくわかりませんでした.一体紋別になんの需要があるんだという気持ちになりました.

 

 

結局,バスにのっていたのは,自分,高齢老夫婦,高齢一人おじいさんの計4人でした.運転手を入れるとかろうじて5人です.おじいさんは遠軽の観光案内を読んでいました.人生楽しそうでいいと思います.ただ,オホーツク管内は移動が大変なので,がんばってほしいという気持ちになります.

 

 

行きの飛行機はかなり早くついてしまったようで,バスがでるまで10分ぐらい待ちました.本来なら飛行機が着いてすぐ出てしまうので,紋別空港線を利用する人はあんまり空港でゆっくりしてると,市街まで数キロ歩くか,2時間バスを待つことになってしまうので気をつける必要があります.

 

 

バスが出ました.紋別空港がある小向地域から,まずは元紋別地域へと向かいます.元紋別地域は藻鼈川の河口付近で,もともとはアイヌの人は,今の市街域であるトマリオロではなく,こちらにより多く住んでいたそうです.紋別市史によると,紋別場所は当初,元紋別地域にあったらしく,そのあたりの事情から「元」と付いているのかもしれません.

 

藻別川 紋別の地名の発祥の地で、昔の紋別場所はここにあった。

紋別市史』p. 88

 

 

紋別地区に来ると,家が見え始めます.JR名寄本線紋別駅の跡地には,紋別市内のバスを運営する北紋バスの本社があり,バスがたくさんとまっています.藻鼈川の写真を撮影し忘れたのですが,かわりに交通安全の碑を撮影することができました.

 

 

交通安全の碑は『誓いの塔』という名前で,1997年に紋別地区交通安全協会により建立されました.(https://mombetsu.jp/soshiki/kyouiku/syougai/news/files/tokkari14gou.pdf

 

国道239号線と旧名寄本線跡の道路が交差する場所にあり,交通安全って感じがしてとてもよいです.

 

 

紋別地域から南が丘までくると,いろんな公共施設が見えるようになります.

 

最初に見えるのは,プールで,すごく大きいです.

 

健康プール オホーツク海は冷涼な気候のため、夏でも水温がさほど上昇しない。海浜を有しながら、海水浴の機会も少ないため、水泳関係者などは早くから年間を通して水に親しみ、健康の増進も図れる施設を求め続けてきた。この要望を受けて紋別市は平成二年一二月二三日、流氷科学センターとあわせて健康プールを建設した。

(略)

施設には、日本水泳連盟公認の二五メートル(七コース)プールのほか、温水の流水プール、全長八六メートルと三五メートルのウォータースライダー、屋外プール、サウナ、二階には各種マシンを揃えたトレーニンググルーム、レストランを備えている。開館当時は網走管内でレジャー設備も備えた総合プールは紋別市が初めてであったため、近郊からも利用者が相次ぎ、ピーク時の平成六年(一九九四)度には利用者は九万七六〇〇人と一〇万人台にあとひと息と迫った。

『新修紋別市史』 p.660

結局,10万には達しなかったらしいです.市内の小中学校の水泳の授業はこのプールでやるらしい.いいはなし.

 

プールのとなりには流氷科学センターがちょっと見えます.

 

北海道立オホーツク流氷科学センター 流氷や海洋の科学的知識を一般の人にわかりやすく、楽しく学んでもらう施設として、北海道が元紋別の流氷ワールド「ガリヤゾーン」に建設し、平成三年(一九九一)二月二日開館した。この日の落成記念式典には常陸宮殿下、妃殿下も臨席され、テープカットを行った。

『新修紋別市史』 p.658

 

バスはプールの横を通り,海へと下っていきます.海辺には海洋公園ととっかりセンターがあります.

 

オホーツクとっかりセンター 「ゴマちゃんランド」の愛称で平成一一年一一月、元紋別の海洋公園に開園した。とっかりはアイヌ語でアザラシのことを指す。オホーツク海にはゴマフアザラシなど五種類が棲息し、愛くるしい姿は「オホーツク観光ライン」のシンボルマークやガリンコ号のキャラクターにもなっている。

(略)

平成一五年の「鳥獣の保護と狩猟の適正化に関する法律」の施工で、それまで法の対象として扱われていなかったアザラシ、ジュゴンニホンアシカ海棲哺乳類も、適正に保護繁殖が図られるようになった。アザラシに限らず、海棲哺乳動物を保護している施設は全国でも紋別だけである。

『新修紋別市史』 p.662

 

海洋公園の白い砂はベトナムから持ってきたらしいです.いいはなし.

 

ホワイトビーチ 紋別港が小規模だった昭和二〇年代までは、駅前通りをくだった海岸右手の通称「前浜」が海水浴場で、港まつりのころには海岸はイベントや涼を求める人たちで賑わうの常であった。港湾の埋め立て整備で市営海水浴場は、昭和三二年に南が丘五丁目地先の岩場の多い海浜に移ったが、港湾の拡張がさらにこの海岸にも及ぶようになって昭和六二年(一九八七)夏を最後に市営海水浴場は閉鎖された。

この海水浴場に代わる施設として元紋別の海洋公園に造成されたのが、人工海水浴場のホワイトビーチである。四億八〇〇〇万円の工費で平成七年(一九九五)着工,一〇年七月仮オープンし、翌年五月全面オープンした。(略)浜に敷き詰めた砂は、ベトナムのカムラン地区産の珪砂といわれる白い石英の粒で、約八〇〇〇トンを船で運び込んだ。ホワイトビーチの名はこの砂にちなんだもの。

『新修紋別市史』 pp.661~662

 

バスは海洋交流館に立ち寄ったあと,また南が丘へと戻っていきます.その際に,バイオマス発電所の白い煙が大きく立ち昇っているのが見えます.2016年末に営業運転を開始した当発電所は,オホーツク地域の林業を背景に,未利用木材を主燃料とした木質チップによるバイオマス発電を行っていて,50MWの出力を持っており,一般家庭6万5千世帯の電力を賄うことができます.当初は200MW規模まで拡大する予定だったらしいんですが,計画は進んでいないみたいです.

 

紋別〜南が丘の港湾地域の整備には,80年代の流氷研究国際都市構想が大きく関係してきます.今回は深堀りしませんが,次回以降のぴよぴよ会では,このあたりの地域を訪れ,ちゃんと書いていきたいと思います.

 

 

南が丘の海浜地域をバスが一通りまわった後,バスはまた南が丘の崖の上に登っていきます.旧名寄本線跡のメモリアル通りを進んでいきます.

 

 

南が丘地域を進むと,創価学会紋別会館が見えます.きれいな建物です.

 

創価学会紋別会館 (創価学会の説明略)紋別市にも昭和三〇年代から会員が増して活動も活発となったので、創価学会日蓮正宗の教義に基づき儀式、行事を行い、会員を教化育成するための紋別地域の会場・拠点に供するため、四三年「創価学会紋別会館」を創設し、四月入仏式を行い、学会員の活動はより組織的になり活発となった。

『新紋別市史 下巻』 p.1195

 

この当時の創価学会の会館は南が丘ではなく,緑町にあったみたいです.

 

創価学会オホーツク正義圏 紋別での活動は昭和三〇年代が始まりとされ、次第に会員も増加し、五〇年代に入り組織の改変と名称変更が数度にわたって行われている。(略)平成四年一二月、紋別本部が名称をオホーツク圏とし一圏二本部(紋別遠軽)に変更された。一〇年一一月、再度遠軽と分離しオホーツク正義圏となり、ゾーンは西紋五市町村と変わった。この間、昭和六二年二月、それまでの緑町四丁目の旧「もんべつ会館」を廃止し、南が丘町七丁目に「新会館」を建立し会員の活動に備えた。

『新修紋別市史』 p.1144

 

正義圏とかきらきらねーむだと思うが,いろいろと理由があるらしい.昭和30年代に学会員が増えたみたいだけど,当時はまだ創価学会日蓮正宗から独立はしてなかったので,日蓮正宗のお寺はどうなってたんだという気持ちなんだけど,ちゃんとできていたらしい.

 

妙立寺 創価学会紋別にも及んで、日蓮正宗の信者の増加をみるようになったのは昭和三〇年代のことであった。しかし紋別には同宗の寺院がまだ建てられていないため、上川郡愛別町から法務一切を行うための出張を仰いでいた。

四〇年代にはいって信者も急激に増加し、寺院建立の要望もまた高まった。この要望がかなえられ、総本山大石寺によって、昭和四八年富士大石寺静岡県富士宮市)の末寺として、約三四〇平方メートルの堂宇が建立された(大山町一丁目)。

『新紋別市史 下巻』 p.1180

 

せっかく日蓮正宗のお寺を1973年に作ったのはいいけど,ちょうどそのころ1974年から創価学会日蓮正宗の脱退を画策(通称「北条報告書」)していて,1991年には破門されてしまうわけなんだけれど,その前にお寺を作っちゃったということで,なんとも言い難い気持ちになれます.

 

ちなみに,なぜか創価学会の会館の道を挟んで隣に,自民党紋別支部と武部新紋別後援会があります.武部新は衆議院議員で,父親の武部勤農水相・幹事長経験者で,牛肉レポーターとしての実績が広く知られています.

www.jcp.or.jp

 

南が丘に自民党支部が移ったのは割と最近のことみたいで,新修紋別市史の時点では,花園町にあったみたいです.

 

支部の事務所は、昭和四五年から幸町五丁目のトミオカ商会の建物を間借りして入居していたが、五八年に幸町一丁目を経て幸町四丁目に移り、平成一一年まで支部の拠点としていた。さらに、衆議院小選挙区比例代表並立制が導入されたことに伴い、道第一二選挙区支部長も兼ねる武部勤衆議院議員の後援会事務所と合同し、同年六月一五日、花園町二丁目に移った。

『新修紋別市史』 p.367

 

次に見えるのは,オホーツク紋別球場です.

 

 

オホーツク紋別球場 市営球場の建設は市制施行前にさかのぼる。昭和二七年(一九五二)、国体軟式野球全道大会誘致を契機に公設球場建設の機運が高まり、佐藤貞助所有の南が丘町七丁目の土地の提供を受け、同年八月、急造ではあったが、七四〇〇人収容の市営球場が設けられた。(略)四四年七月には内外野合わせて二万人収容の日本硬式野球連盟公式基準に適用する二万二一六〇平方メートルの球場が完成した。(略)平成一〇年度を初年度として既施設の撤去と、新球場の建設工事が施工され、備品整備事業など含め一四年度までに、総事業費一五億六二三二万五〇〇〇円の工費を投じて完成した。一五年五月、名称も「オホーツク紋別球場」と改められ、五月三一日、オープン記念式を行い完成を祝った。

『新修紋別市史』 p.903

 

地理院地図の衛星写真でも,球場の向きや大きさが変わったことが確認できるため,昭和44年改築と平成15年新築が確認できます.

 

 

南が丘4丁目・3丁目と進むと,次第に丘の部分が終わり,オンネナイ川へと下っていきます.

 

 

オンネナイ川を超えると,南が丘町は終わり,港町に入ります.紋別プリンスホテルが見え,津波の浸水想定域の看板がいろんなところで見えます.

 

 

海沿いには鉄工所がたくさん見えます.鉄工所が多い理由はちょっとあんまり理解していません.

 

 

遠紋党という謎の地域政党のポスターを至るところで見ます.どうも,写真にもちょっと写ってる新沼透という議員が所属しているようで,この議員は新党大地や維新の党の推薦も受けているため,維新系の政党ということのようです.維新は自民党の2軍なので,自民党から追い出された組という感じがします.新沼透の父,新沼浩も,息子と同じく道議を歴任していたため,世襲のようです.新沼浩は道議を6選した後,勇退しますが,直後の平成11年第14回道議員選挙で,自民党の公認を得ながらも息子・透は,民主推薦の井上真澄に敗北し,落選します.その後しばらくは立候補しなかったようですが,平成27年・31年と立候補し,2期当選を果たしています.この間に何を思ったのか設立したのが,遠紋党なのだと推測されます.

 

 

バスは長らく海岸通りを進み,紋別バスターミナルの方へ左折します.この際,紋別港の第一船入間が見えます.ふないりまとかいう語,「ま」の字がめんどくさくて,間で書きます.漢字廃止.ちなみに,第二船入間は,先程ホワイトビーチの話で出てきた「前浜」のところにできています.

 

 

紋別は坂が多く,海から何段も海岸段丘ができています.バスは段丘をいくつか上り,駅前通りを進み,バスターミナルへと入っていきます.駅前通りといっても,名寄本線は廃止されたので,紋別駅はありません.

 

バスを降りた瞬間は寒いなと思ったのですが,歩いて汗をかくと湿度が高く,むしろ暑く感じました.上着は持ってきていたのですが,全く使いませんでした.

 

 

バスターミナルに荷物をおいたら,次は紋別市内を歩きます.1日目は紋別公園に行く予定だったので,そこを目指します.

 

なんかこう,いろんな資料を調べながら書くのつらいので,誰か代わりにやってほしい.一生終わる気しない.

 

つづき

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