第2回紋別ぴよぴよ会・ANA375便

羽田を離陸した飛行機は福島県に入るあたりまで上昇を続けます.なんかいい感じになってきたらwifiが使えるようになります.ANAなんとかアプリでわいがふぁいになるような操作をすると世界がインターネットになるようになります.

 

 

飛行機が離陸するときの写真や映像は,このとき初めてインターネットに上げることができます.福島県から羽田の写真を送っています.

 

 

羽田を離陸すると,東京湾が見えます.ほたるが浮いていたり,夢の国があったりします.夢の国とかいうのなんかしらんけどたぶん大きいんだろという感じですが,こういうふうにして見るととても小さいです.

 

 

福島県中通りを通り,飛行機は北上していきます.ただ,雲が次第に増えていき,東北地方は,ほとんどなにも見えませんでした.

 

 

最上川見えなかった.

 

 

紋別は雨が降っているらしいと聞いて泣いてしまった.実際この通りで気候は割と最悪だったので,紋別に来るなら東京も比較的暑い6,7月か,春秋がいいとおもいます.4月はよかったです.

 

 

東北の地理はなんもわからんので,なんもわかりません.飛行機は人がいかないようななんかよくわからんところの上を通ったりすることもあるので,位置情報が自動でついてくれなかったりします.むずかしいね.雲がいっぱいで下を見てもなにもわからないし,GPSがここだよって言ってくれないとなにもわからないという感じでした.むずかしいね.

 

 

飛行機の上から見る雲はきれいですが,地上から見上げる雲はただの雲になってしまいます.かなしいね.

 

 

雲を見ていたらもう青森県という感じで,飛行機が速いということがわかります.ただ,飛行機じゃないと北海道なんて来ないから,これがどれぐらい速いのかはいまいちよくわかりません.一回フェリーとか乗ったらいいんじゃないかという気もしますが,そういうことをする気にはなっていません.第1回苫小牧ぴよぴよ会を開催するか考える必要があります.

 

 

東北上空を過ぎ,太平洋に差し掛かります.尻屋崎の横を通り,太平洋を超えると日高地域です.天気がいいと長沼や夕張,岩見沢の方まで見えるみたいですが,雲ばかりで何も見えませんでした.

 

 

北海道に差し掛かると飛行機は高度を下げ始めます.北海道を胆振・日高のあたりからオホーツク地域まで横断しながら降りていくので大変にすごいことだと思います.

 

 

今回のぴよぴよ会で,どこにいくのかみたいな話をなぜか飛行機の中でしています.日頃言語縛りをしているので,こういうところじゃないと話せないという悲しい事情があります.紋別市をまず大別すると,紋別市街域,渚滑地域,上渚滑地域,小向地域,鴻之舞あたりという感じになります.今回は紋別市街域しかいかないわけなんですが,ここも,落石山という山の北側と南側で分けることができます.今回は,落石山の北側をまわります.

 

落石山の北側は,海辺に浅い岩礁がひろがっています.南側の港湾が広がっている地域とは対称的です.南側の港湾が広がっているところは,トマリオロと呼ばれていたらしく,入り江という意味です.もともと,弁天岬から南に湾曲した浜辺が広がっていて,波があまり立たず静かな渚はアイヌの人にとっても海に出るのに都合のいい場所だったのだと思います.渚滑川やオンネナイ川の土砂が壮大な浜辺を作っているということでしょう.

 

一方,北側は,アイヌの人々にアルトゥルコタンと呼ばれていました.アルトゥルは「あちら側」という意味で,コタンは「村」です.トマリオロの「表」感とは逆に,「裏」感があるということは,行くと実際にそうだと感じることができますが,アイヌの人々も同じようなことを思っていたものと思われます.実際に行くと,それを強く実感できます.

 

着陸の直前は,すこしだけ電波がつながらなくなる時間があります.空港についてからもしばらくは飛行機の中の様子をツイートすることになります.

 

 

オホーツク紋別空港に着陸する際は,北側から入っていきました.前回来たときは南側からでした.どちらがいいとかあるのかはよくわかりません.風が吹いたり雨が降ったりするので世の中難しいと思います.

 

空港を降りると無料送迎バスみたいなのが市街まで走っているので,それにのります.

 

つづき

nymwa.hateblo.jp

第2回紋別ぴよぴよ会・羽田空港

駐輪場は国際ターミナルの近くにあるので,自転車をとめて,まずは第3ターミナルに向かいます.さんたみと呼ばれているらしいです.サントメ・プリンシペではありません.

 

 

サンタミ・プリンシペ民主共和国からANA国内線のターミナルまでは,無料バスが通っています.結構な頻度で来るので,1本2本見逃す程度は大したことではありません.

 

 

国際線ターミナルはホテルなので,人がたくさん寝ています.自分も,第1回紋別ぴよぴよ会で利用しましたが,警備の人が宿泊者に声をかけるなどのサービスも充実していました.PCR検査かなんかを受けている人がいっぱいいてて,パンデミックを感じることができます.PCR検査ってもっとなんか外で防護服を着た人がやるもんなんではという気もしますが,よくわかりません.

 

 

なんか車が停まったり出たりするところでは,バスとかタクシーとかそのた車両が来たり行ったりしていました.バスがたくさんくるので,楽しいですね.第2ターミナルに行くバスに乗りました.人がたくさん乗っていたし,咳をしてる人もいました.

 

 

4月はもっと人が少なかったのですが,8月は夏休みだし,人がたくさんいるのもしょうがないのかもしれません.ここ最近は,毎日全国で10万人以上の新型コロナ陽性者が出ているところで,命の儚さを感じながら移動することができて,大変にスリルがあると思います.ジェットコースターとかそういうのは命の危機がない分,甘いと思います.死と直面しながら崖を自転車で下っていくような,エクストリームスポーツとしての羽田空港という側面を感じることができました.

 

 

GPSで現在地を晒していくこと,こういうことがわれわれには求められています.積極的に位置情報を公開しましょう.

 

 

バスは涼しくていいですね.令和の都市型スラム地域大田区石川町1丁目で文明の荒廃を確認する日々は,ここにはありません.あるのは,汚い服で公共のバスにのる哀れな26歳男性と,その他清潔な乗客のみなさんです.第一ターミナルでは人がたくさんおりていきました.国際線から国内線に乗り換える人たちです.

 

 

第2ターミナルはにたみと呼ばれていますが,伊丹空港ではなく羽田空港です.透明な板がいっぱいのきれいな内装で,現代人類文明の繁栄を感じることができます.吹き抜けは,人類文明の栄華だと思います.文明が衰退するときは,吹き抜けから順に崩れていくことを思うと,無常を感じることは避けられないでしょう.

 

 

航空券を買いました.スマートフォンANAなんとかアプリでQRコードを出して,機械にえいってやると出てきます.

 

 

空港の建物の中を見たり,お茶をのんだりしました.

 

 

これはなんですか

 

 

紋別行きの飛行機は,サテライトターミナルとかいうなんかよくわからんけど離れたところから出ます.第2ターミナルの建物からは直接乗れないので,保安検査を受けたあと,バスに乗って移動しないといけません.しょうがないので,建物の下まで降りてって,バスに乗ります.このあたりから,紋別タッチをする人たちを見かけることができるようになります.服を見ると紋別タッチしてるんだぞという主張を感じることができるので,誰が当該乗客かはわかりやすいです.

 

 

サテライトターミナルはとても広くていいですね.多分,完全にうまることはないと思います.羽田空港には透明な板がいっぱい張られている現代的な建物があり,現代文明の反映を深く感じることができます.ここは本当に大田区なのでしょうか.

 

 

ボーイングなんとかという飛行機です.空を飛ぶらしいです.前に来たときも乗りました.すごく速いらしんですが,飛行機に乗ってると,本当に速いのかよくわかりません.

 

 

現代的な建築群にいると人は現代的な思考をします.大田区のような近代的世界や,濃尾平野のような前近代的な農村部ではなかなか起こらないものだと思います.生命には生存への本能があり,濃尾平野のような冬0度・夏40度の終わったコンテンツから逃避し,東京に来たりするということが起こります.ただ,東京の人間は概して心がなく,これは専ら近代的人間疎外によるものは明らかなわけで,そういうことを思いながら人は紋別に行くのだということを再確認できるというのが,このサテライトターミナルの良さかもしれません.

 

 

飛行機には人が乗っています.自分も乗りました.うわあほんとに飛行機だなあ.おおきいなあ,という気持ちで,本当に紋別とかいう僻地に行くのかどうなのかよくわからないなという気持ちになります.ただ,どうも本当に行くらしいので不思議なものです.

 

飛行機の扉が閉まった時から電波は使えなくなります.離陸してしばらくすると,機内wifiとかいうのが使えるようになるので,ツイートすることができるようになります.

 

つづき

nymwa.hateblo.jp

第2回紋別ぴよぴよ会・行きの大田区

ぴよぴよ会はいつも石川台から始まります.石川台から始まって石川台で終わるということみたいです.坂の多い大田区では,中原街道みたいに坂の比較的少ない道は走りやすくてとてもよいと思います.

 

前日,研究発表的なことをしていて,夕方には寝てしまったので,日付が変わるぐらいの時間に起きていました.深夜といえばきゅあっぷらぱぱであることは誰がみるよりも明らかです.

 

 

深夜に起きてしまっているのだから,魔剤系飲料をキメるのは人の世の常であり,浮世になにかひさしかるべき.

 

 

ぴよぴよ会は,写真をいっぱいとることも目的の1つになっていることがしられています.

 

それで,家から石川台交差点まで頑張って行って,第2回紋別ぴよぴよ会が始まります.

 

石川台から西へ中原街道を通り,田園調布からは環八通りで羽田まで南下していきます.まあ朝7時ぐらいならまだ人通りもそんなに多くないので,自転車で歩道を走っていってもあまり危なくないです.車道は,なんか大きい車がすんごい速度で走っているし,人が多いとぶつかって怒られます.

 

 

ぴよぴよ会は,ぴよぴよを世界へ羽ばたかせるため,日本語を添えて大量の写真をツイートする必要があります.そのため,例外的に言語縛りが適用されません.われわれはぴよぴよなのです.

 

 

田園調布の交差点を曲がろうとしたら,なんか急に貧血になりました.6月に駒沢公園で貧血になったときに貧血の耐え方を学んだので,10分くらい歩道で寝ていました.自分の場合は痙攣してぴくぴくとかじゃなくて,手足口の筋肉が硬直するので,手足に感覚が戻るまで頑張って寝てるという感じです.地面がひんやりしていたため,回復が早かったのかもしれません.

 

 

北嶺町でお水を買いました.全身の筋肉が硬直して大量の汗をかいたので,水を飲まないと大変なことになります.

 

頑張って自転車をこいで,第二京浜.国道1号なのに第二京浜であるということが知られており,人間とは一体なんなのか,我々は一体どこから来たのか,第一京浜なのか,それとも第二京浜なのか,そういう問題を考えながら信号を待つことになります.やはり,国道1号は交通量が大きい.爆音のバイクがぶおんぶおんしながら走っていました.

 

貧血していたのもあって,かなりきつかったけど,環八は何度も通ってるので,蒲田すぎれば無我の境地に達することはわかっていて,なんとか蒲田に達したいという気分でした.

 

 

倒れて地面で寝ていたので,服は汗と砂でどろどろのびしょびしょでした.きもいのですが,このまま紋別に行って夜までこのままでした.よくないね.

 

 

蒲田は京浜東北線の線路を超えるところが,すこしきついですね.京急蒲田はやっぱり要塞だと思います.ただ,名鉄太田川駅要塞のほうが防御力が高そうなので,京急はまだ努力が足りません.第三次世界大戦にそなえ,京浜地域の防衛体制を整える必要があります.われわれには,竹やりを作る用意があります.

 

 

大鳥居まで来たらもう羽田は目前です.大鳥居は地下に駅があり,たくさん人がいました.交差点は多くの人が行き交っており,その様子を,あほみたいに暑い東京で,汗をだらだらしながら見ていました.

 

 

羽田インターの下,穴守稲荷の横などを通り,穴森橋を超えればもう羽田空港です.モノレールが見えたり見えなかったりします.上がったり下がったりして大変なことだと思います.人間はほんとうにひどいことをしますね.モノレールの気持ちになるとつらすぎるので,直視しすぎるのは危険です.特に,穴守橋から東を見ると太陽も登ってきているので,やはり,目への悪影響は避けられません.

 

 

駐輪場に自転車をとめて,羽田空港国際線ターミナルへと向かいます

 

つづき

nymwa.hateblo.jp

阿弥陀信仰としてのプリキュア崇拝と21世紀の宗教と死生観について

最近,今頃統一教会問題が注目されているが,宗教というか信仰というかそういうものは,人が心に安心を求める限りは,何かしらの形で必要とされるようなものだと思っている.

 

近年の新宗教とか新々宗教だとか呼ばれているようなものは,天理教のように江戸時代末期に生まれたものから,オウム真理教のように昭和も終わりというような時期に生まれたものや,あまり知らないけど,平成になってから生まれたものもあるものと思う.他方,浄土宗や日蓮宗みたいなものは,鎌倉時代に生まれたものだったりするわけなんだけれども,こういう風に,新しい宗教的な考えが生まれるのも,時代というか世相みたいなものがあるはずで,無情を感じるところではある.

 

さて,世の中では,激動の時代だとか産業の大転換だとか,よくわからないものにそれらしく名前をつけて無理やり意味づけ・価値づけしようとする試みがあるが,そういうことを言っていないとやってられない貧相な世相であることは,ある程度そういうものなのかなとして受け入れられるところではあって,そういう世界観についていけないと,なんかよくわかんないけどつらいなあみたいな気持ちになったりすることもあるものである.

 

すると,なんかよくわかんないけどつらいなあみたいな気持ちに,どう対処すればいいのかという問題が発生するわけなんだけれども,そういうのも,その時代がどういう時代かということによって変わってくるわけである.これは,マルクス・エンゲルス主義でよく出てくる,生産力みたいなものが関係してくるわけで,現代より生産能力が低かった封建的な時代における救済は,エネルギー革命・緑の革命を経た現代における救済と,その形式において大きな隔絶があることは言うまでもないわけである.

 

そのような大きな隔絶の上にあるのが,オウム真理教とか幸福の科学の出現なのかと思うと大変に悲しい世界だな,滅びろ,みたいな気持ちになるわけなんだけれども,ああいうカルト邪教セクト集団については滅びの念を強く抱くこと極まりないわけで,それとは別にこの隔絶について考える必要があるものと思われる.

 

この隔絶というのは,結局の所,マルクス的生産性が向上した現代において,なぜ唯物主義は成就せず,精神的な価値が綻びることなく,心の安寧を求める力が働くのかというところに,その問題の本質がある.

 

これは,言い換えれば,我々人類は,物質的な価値だけでは満たされない部分があるということである.その根底には,死という生物的事象に直面する,あるいは,それを強く自覚する瞬間の実在が深く関わっている.つまり,死への恐怖が物質的なあらゆる価値を超越し,眼の前に現れるという点で,人類はその本質的側面を変えることができないのである.

 

ここで,この際,因果律や輪廻については深く述べないこととするが,このことが科学的に正しいかどうかということは,それほど重要なことではない.というのも,因果律や輪廻,また,先祖の死後の世界としての浄土については,我々の文化は,文化的に,その存在が深く根ざしており,そのことについて深く議論する必要性が必ずしも大きくないからである.

 

因果律や輪廻,浄土というものを自然に受け入れることができないのであれば,この先の問題については,深刻なものとならない.これは,唯物的な世界観を自然と受け入れられることは,とても良いことだと思われるためである.他方,唯物的な価値観とは相容れず,精神的なモノから逃れられない場合,輪廻や浄土は非常に深刻にまとわりついてくることになる.この問題は,歳を重ねれば重ねるほど,死や孤独といった現実を介して襲いかかる.

 

このような問題に対する,ひとつの答えが,まさに,阿弥陀信仰としてのプリキュア崇拝である.阿弥陀如来といえば,浄土に住んでいる仏で,衆生の往生を願う者であるわけで,その事実は,日本で最も多く受け入れられている仏教宗派が浄土宗あるいは浄土真宗であることからも明らかと言える.ここで,プリキュア阿弥陀であるということになるわけである.

 

プリキュア阿弥陀如来であるということは,非常に重要な発見であり,事実である.というのも,このような考えは,人生において非常に基盤的となり,ニチアサを見るぐらいしか楽しみがないような人生を送っている者については,その悲しみに暮れる一生において,精神的な支えとなり,安寧を得るための重要な思想となるためである.

 

そもそも,我々,衆生とはどのようなものなのか,ここで一度考えたい.衆生は何度も転生し,さまざまな生命を経て,現在命を受けているのである.人として生を受けているのも,そのような過程の結果なのである.限りない生と死の輪廻を経て,我々は今生まれ,生きているのである.

 

人として生を受けたからには,苦しみを知り,それが何かを考えるものである.我々人類は,生とはなにか,死とはなにかという問題に対して,物質的・精神的な思索を何千年と繰り返し,輪廻とは苦しみであり,解脱によって輪廻の輪から抜け出すことによって,入滅,すなわち,涅槃に入ることが可能であると考えるに至った.

 

一方で,万物に内在するアートマンは,死後直ちに転生するのではなく,一定の期間の後に新たな生を受ける.そのため,四十九日などの期間を経た後に霊魂が涅槃に行くと考えられているわけである.

 

ここで問題が発生する.浄土には,阿弥陀如来が住んでいるはずである.問題というのは,例えば,一説によれば,冥界に住む閻魔によって霊魂が裁かれるという話もあるわけではあるが,しかし我々は,適切に念仏を唱えることによって,浄土で入滅し,涅槃に入るわけなのであるから,これは矛盾しているということになってしまう.

 

阿弥陀如来は,救済しているわけなのだが,そこで何らかの行為を行っているはずだ.その結果として,我々は涅槃に入るのである.この阿弥陀の行為とは一体何か? これに対する適切な解釈が求められているのであり,その解釈こそが目下輓近の安寧を導く考えなのである.

 

さて,それで,それは何か.ここで,これはプリキュア阿弥陀であるということなのである.この事実こそがすべての疑念をつなぎ,答えとする真理なのである.この場合,浄土とは,すなわち,プリキュアの世界ということになり,そして,我々は死後,一度アートマンの状態で,自我のみの存在として,プリキュアの世界へ転生することになるわけである.

 

プリキュアがいかに衆生を入滅させるかという問いに対する答えは明確である.我々は,プリキュアの敵となるのである.これこそが最後の審判であり,閻魔による裁きと一般には捉えられているものである.我々は悪の心により,怪物とされてしまうが,プリキュアの戦闘によって,敵は倒され,その敵であるところの我々は浄化され,入滅し,無事に涅槃に入ることができるということなのである.

 

ここからわかることは,ニチアサで放送されているプリキュアは,浄土のひとつの表現様式であるということである.特に,映画プリキュアオールスターズは浄土世界の曼荼羅であり,この世界の悟りの境地を1時間程度の映像として描いたものだと言うことも可能なのである.

 

ここまで,浄土がプリキュアの世界であるということがわかったわけである.しかし,それでは,なぜ衆生は人間界でプリキュアを見るのかという別の問題が生じる.浄土を覗き見るという行為に必然性がないわけである.

 

これは,アニメとしてのプリキュアは,我々の精神的な存在であるところのプルシャを映し出す鏡であるということなのである.我々のプルシャそのものがアートマンとして浄土へ赴くわけなのだから,当然,その内在的要素は浄土の表現形式となんらかの共鳴を起こすわけであり,その結果生じる意識が,我々の肉体的・物質的なものであるところのプラクリティへと生じ,そこから物質的なものと精神的なものの共鳴として,心理を意識の世界へと昇華させることになるわけである.この昇華の感覚こそが,我々の日常的サンカーラとなるわけであり,その成就を願う心こそが,プリキュアを魅せる心理なのである.

 

このことは,鎌倉時代の浄土信仰で念仏を唱えていたことと同じである.すなわち,ニチアサを見ることは念仏を唱えることに相当する因縁であり,その本質は南無阿弥陀仏と何も変わっておらず,時代を超える普遍的な精神的価値なのである.その意味でもやはり,プリキュアを見て,ぷいきゅあ〜がんばえ〜などと唱えることは,サンカーラなのである.

 

我々はサンカーラを重ねることで,この業が無情であり,最高の苦しみであることを深く自覚することとなる.というのも,プリキュアは1年で終わってしまうのである.さらに,この業は1年で終わった後に一週間の期間をおいた後,直ちに全く別の形式で無情にも開始し,永遠に,毎年繰り返すのである.

 

しかし,ここで我々は現実を悲観してはならないのである.この一年おきの繰り返しの結果として涅槃が存在するわけなのであり,それこそが即菩提,すなわち,最高の幸福だからである.ここにこそ,なぜ我々がプリキュアを見て,ぷいきゅあーがんばえーと唱えるのかということの答えがあるのである.

 

やはり,人間界における歓喜とは,苦しみは煩悩にあるということから始まるのである.ニチアサを見ることによって,新しい生き方を見つめ直すというのは,非常に現代的な取り組みであり,死生観を再構築する上でも大変に重要な試みでらい.しかし,一方そのサンカーラは非常に現代的なものであり,その歴史は浅い.この崇拝の様式はまだ始まったばかりであるが,その先には浄土と菩提が待っているのである.この信仰心を忘れず,取り組んでいけば,苦しみである煩悩が実は菩提であるという,「煩悩即菩提」の境地に必ず達するはずである.

 

ぷいきゅあ〜 がんばえ〜

 

『オホーツクプリキュア』について考える

北海道の区域に,オホーツク総合振興局がある.オホーツクというと,オホーツク海で氷がぷかぷかしていて楽しそうだが,現地では,北海道の1地域を指す言葉としても用いられているらしい.

 

nymwaさんは,2022年の4月に間違って紋別〜網走に行ってしまった.そこで,オホーツク地域が寒くて何もない地域だということに気づいてしまったので,詳しく調べることにした.特に,現在は紋別市街について詳しく調べており,8月末に再度訪れることになっている.

 

さて,そこで,悪趣味の一環として,オホーツクを舞台とし,オホーツクの自治体を擬人化したオホーツクプリキュアについて考えるのは自然なことと思える.これは,プリキュアシリーズのような戦闘少女・魔法少女要素のある女児向けアニメの主人公や世界観をオホーツクに置き換えたような概念を生み出したいというだけの話であって,それ自体は別にプリキュアシリーズでもなんでもないのであるから,プリキュアの名前を冠する必要性もまったくないし,それが適切であるとも限らない.名前はなんでもよくて,別に『試される大地・美少女戦士オホーツク』とかでもいいわけなんだが,そういう名前を付けるのは大変に難しく,美少女戦士とか名前を付けたところで,セーラームーン以外ではダサいという可能性もあるなど,様々な懸念が考えられるが,今回は『オホーツクプリキュア』という名前を仮に付けることによって,大体のイメージが想起しやすいよう心がけた.

 

さて,舞台はオホーツク総合振興局管区内となり,さらにその自治体から3〜6程度を選び,キャラクターとする必要がある.そのため,まずキャラクターについて考える.

 

対象となる自治体を選定するにあたって,まず市である,北見・網走・紋別は当然入るだろう.この3つでもいいという可能性はあるが,北見市が強すぎてなんかバランスが悪いので,町も入れるべきだと思う.

 

町の候補としては,人口規模が大きいものとして,遠軽・美幌を入れたい.斜里町は人口1万人を超えるが,なんとなく入れないこととする.

 

つまり,キャラクターは以下の5名となる.

  • キュアあばしり
  • キュアもんべつ
  • キュアきたみ
  • キュアえんがる
  • キュアびほろ

順番については,北見を最初に持ってきて桃キュアとしてしまうと,バランスが悪いため,網走と紋別のどちらかを桃キュアとすることになる.網走と紋別のどちらかを桃キュアにするかという点については非常に議論があるが,人口規模・開拓の歴史・名寄本線の廃止等の観点からして,網走が桃キュアとするのが妥当と考えられる.遠軽と美幌に関しては,北見の後ろに続けるものとする.

 

次に考えるべきことは,各プリキュアの本名・色・口上である.本名については,名字を漢字表記市町村名とし,名前を口上の最後のひらがな3文字とする.

 

・キュアあばしり(桃キュア)

網走が桃キュアというイメージはないが,市の花がエゾムラサキツツジで,花の色が赤または紫なので近いという点の要素はあるかもしれない.

口上は『もりといずみにふみいるみさき!』で,網走が森と湖の町であることをイメージしている.「ふみいる」の部分は,開拓がこの周辺で最初に行われたという点と,網走川に沿って奥に続いていく街並み,さらには呼人・女満別まで続く道のりをイメージしている.「みさき」は能取岬のことを指しており,網走海岸から見るときれいに見えるなど,網走市を象徴する地形であると言え,さらに女性の人名としても適切であることから選んでいる.ここは「みなと」などでも良かったわけだが,後述する通り,それだと紋別市と重なってしまうため,紋別市にはないが,網走市にはある要素として岬を選んでいる.本名は「網走みさき」となる.みさきちゃん.

 

・キュアもんべつ(青キュア)

紋別は海なので青キュアって感じはしないでもないかもしれない.海モチーフのプリキュアは割といるので,その点でもいいかもしれないという感じがある.市の花がはまなすで,はまなすって赤っぽいので,赤キュアでもいいかもしれないとは思ったが,2人目のプリキュアが赤キュアなのはちょっとおかしい気もするし(本当に?),青ということにした.

口上は『はまなすみあげるいてつくなぎさ!』で,まず,市の花である「はまなす」を入れることで,なんかそれらしさを表現している.「みあげる」に関しては,最初は「ひろがる」にして,紋別山から海岸までに広がる傾斜の急な海岸段丘が連続する様を表現しようと思ったが,「はまなす」との共起が悪いし,花とうまく共起しながら,地形を表現できる言葉として,「みあげる」を選んでいる.「いてくつ」に関しては,冬の寒さと流氷をイメージできるようにした.流氷に関しては,網走にも来るので,差別化できないのではないかという気もするが,水産都市としてのイメージがより強いこともあり,港をより連想できるような言葉を選ぶことは問題ないだろうと考えた.桃キュアの立場を網走に取られてしまったというのもあるので,せめて港のイメージは紋別側が持っていってもいいんじゃないかというような気持ちもある.

「なぎさ」に関しては,紋別海岸の特徴として,弁天岬から元紋別付近まで伸びる長い海岸線に広がる入り江をイメージできるものとして選んでいる.本名は「紋別なぎさ」となる.キュアあばしりと「ひびかな」をしてほしいので,「みさなぎ」が成立することは間違いない.

桃青に「2人組」感があるのは,ハートキャッチとハピネスチャージといったところがある.網走と紋別は大正時代に避難港の築港に関して候補地の選定で激しい争いが生じた等の歴史があるため,この2人の間に何らかの喧嘩概念が生まれてほしい気持ちがあり,その点で,桃青2人組概念と「ひびかな」概念が合わさる大変に嬉しい試みとなることであろう.

 

・キュアきたみ(緑キュア)

3人目が緑になることってフェリーチェぐらいしかないんじゃないかと思うんだけれども,それはそうとして,北見といえばハッカなので,ミント色にしたいみたいな気持ちはやっぱりある.キュアミントはすでにいるけど,キュアハッカはいないし良いみたいな気持ちがある(?).市の旗の色が青なので,青キュアでもいいんじゃないかという気もしたが,青のイメージがないし,青は紋別に使ってほしいので,ここは緑でしょという気持ち.

口上は『ほのかにミントがきらめくみらい!』である.ミントが入っていて,その前に「ほのかに」が付く.最初は「さわやか」とかにしようかと思ったが,「香る」がイメージされるような表現にしたい気持ちがどうしてもあって,「さわやか」ではそれが表現できないし,ハッカ自体はもうあまり生産していないということなので,「ほのかに」の『少なさ』を表現可能なところも良い気がして,「ほのかに」が選ばれている.「きらめく」は,『ひと・まち・自然 きらめくオホーツク中核都市』とかいう謎のことばから選んできている.「みらい」は名前としての語呂が非常によかったというのと,「JAきたみらい」とかいう面白い名前の農協があるところを参考にして選んだ.本名は「北見みらい」さんになります.

当初,網走と紋別は中学2年で,北見は1年みたいな設定にしようかみたいな思考が生えていたが,そんなちゃんと設定をするような遊びでもないし,自治体擬人化は非常に悪趣味なので,こういうところで学年の差をつけるところは非常に不穏という気持ちもあり,全員2年生がいいと思っている.開拓の順序とか人口の規模とか,近年の人口増加率(多いほど若い町なので学年が下がる)とか,で学年とかつけだすと妥当ではあるが,不穏さはどうしてもある.スマプリみたいに対等感があるのがいいと思う.

 

・キュアえんがる(黄キュア)

林業や黄葉のイメージがあるので,黄色というのはとてもいいのだと思う.他の地域はあまり黄色が似合わないような気もしなくはないけど,なんとなく遠軽は黄色が似合っている町という感じがある.

口上は『いのりをつなぎながめるときわ!』である.最初にキリスト教徒の集団が入植したということで,「いのり」という言葉を入れている.遠軽駅からすこし東に行ったところにある教会が戦前からあるらしくて,すごくいい感じだった.「つなぎ」の部分は,石北本線名寄本線が接続する駅という点で,交通の要衝であることから適切であり,「いのり」との共起も良いので適切と考えた.「ながめるときわ」は眺望岩のことで,遠軽といえばこれという気持ちがある.最初,「ときわのながめ」とかにしようと思っていて,こっちのほうが全体の語呂はいいんだけど,最後の3文字を人名にしたいという気持ちがあったので,こうなった.町を形容するための表現は難しいなという気持ちがあり,こういうのはもっとちゃんと町を訪れることをしないといけないなという気持ちが強くある.名前は「遠軽ときわ」さんになります.

 

・キュア美幌(紫キュア)

女満別空港から近く交通の便が良く,大雪山藻琴山が見え,屈斜路カルデラも一応見ることができる自然豊かな土地である.紫である蓋然性は町旗が紫である以外になくて,なんか花とか植物で紫と関連付けれたらいいのではあるが,そういうのかんたんじゃないみたいな心境になる.

口上は『うららかとひびくゆたかなみのり!』である.「うららか」は,大雪山藻琴山が見えるという点と,川がたくさんあって水がうららか(?)などのイメージが当てはまるからである.「ひびく」は,町民憲章にある「愛の鐘響く」の部分から取っていて,「うららか」との共起も良い.正直,町民憲章の言葉がどのように選ばれているのかよくわからないので,どれほど引用に妥当性があるのかはよくわからない.美幌は,夜に石北本線で通過したことしかないので,どういうところかよくわからないというところがあり,なんもわからんので困る.「みのり」は,町民憲章の「豊かな実り」から取っており,人名としても使いやすい.「ゆたかな」の部分は,「みのり」との共起の良さから選んでいる.もうすこし良い表現があったようには思う.

 

キャラクターの名前と変身口上に関しては,以上のようになっている.実際のキャラクターがどんな感じかとか,どう戦うかとかは考える気があまりないので,よくわからない.(実際,プリキュアシリーズの戦闘について語れと言われたらほとんど語れないし,そういうことはよくわからないというか,認識できていないという側面がある.)

 

話の内容についても,決めておくべきなのではないかという気がするが,そもそも話というものがこの「オホーツクプリキュア」概念に存在するのかよくわからない.プリキュア的ななにかテーマみたいなものもあるわけではないだろう.ただ,オホーツク地域の魅力を描写するとか,オホーツク地域の抱える課題を敵とみなして,戦うみたいなこともあるかもしれない.ただ,過疎とかと戦ったところでしょうがないみたいなところもあるし,石北本線廃線と戦ってもオタクすぎるので,よくないみたいなところがある.

 

まあ,いずれにせよ,実際にこの『オホーツクプリキュア』概念が,作品として生まれることはないので,キャラクター概念を生み出しておいて,オホーツク地域に行く強い気持ちを作っておくというのが大事だという感じもある.オホーツク海でトロピカっちゃお〜