第2回紋別ぴよぴよ会・落石峠

国道238号線から,貯水池の横の通路を通って行きます.

 

 

貯水池がありました.

 

 

国道から落石峠のあるところまで行く便利な道はなくて,ここを通るしかありません.結構急なので,雨が降ってたりすると危ないですし,あまり勧められるルートではありません.

 

 

雨が止みました.よかったです.

 

 

地理院地図で見ても,こちらが本来の峠という感じがします.国道の峠に見えたところは,切り通しのようです.ただ,道路があるところが峠っていう気もするので,どっちも峠という気持ちもします.

 

 

落石という語は,okcisというアイヌ語から来ています.okcisは鞍部を意味するようです.根室にある落石は峠ではなく,陸繋砂州ですが,たしかにこれも鞍部です.峠と陸繋砂州を同じ単語で呼ぶ言語の感性は非常におもしろいと思っています.

 

 

根室の落石にも行ってみたいですね.

 

落石山の南側斜面は墓園として利用されています.

 

都市計画の推進上、南が丘町二丁目、現報恩寺付近の紋別墓地が支障をきたすに至ったので、市は昭和三一年から「都市計画法」に基づき、失業対策事業で紋別墓園の造成に着手した。

この墓園用地として,紋別公園の背後にあり、市街を一望におさめる大山町四丁目六七五番地の市有林野内丘陵地五・八二ヘクタールを選定。

『新紋別市史 下巻』 p.1025

 

寺の境内だと狭すぎるということで,広い土地に墓園を作ったようです.南側が開けている斜面で,周りが山に囲まれているというのは,風水的にも良いのかなあという気もします.実際行ってみると,かなり景色がよく,この土地を選定した人たちの気持ちを推察できるところがあります.

 

 

墓苑じゃなくて墓園です.単語としての意味合いはそんなに違わないのかなという気はしますが,正式名称はちゃんとすべきだなあという気持ちになります.

 

墓園のほうを望むと,バイオマス発電所から白煙が,雲と見紛うように立ちのぼる姿が確認できます.木質バイオマスなので,クリーンなイメージが大事だと思うし,白くなるように努力しているんだとは思いますが,すごく目を引く存在です.晴れてるともっと見応えがあると思います.

 

あんまり人の墓をじろじろ見るのも気が進まないのですが,墓を見ると南無阿弥陀仏と書いてあるものが見られました.真宗の割合が多いのは日本全国でよく見られる傾向ですが,墓園全体を回って宗派の割合を推測するというのも,いずれやりたいなあと思っています.

 

 

北側斜面は花園浄水場として使われています.花園浄水場と貯水池が見えます.

 

 

浄水場です.浄水場を作るならちょっと標高が高いところがいいと思いますが,紋別市街は落石山で南北に分断されているため,峠の部分に浄水場を作るというのは,すごく理にかなっているように思います.墓場と浄水場を同じ場所に作るというのも,ちょっとよくない印象があるような気もしますが,北側斜面と南側斜面で土地の利用を変えているというのも,すごくよく考えられているように思います.

 

居住区域が広がり、水産加工場や船舶等の給水需要も増加すると、さらに施設の拡張が必要となった。しかし戦時下のひっ迫した財政事情などで施工に踏み切ることができず、時間給水制限などで急場をしのぎながら、戦後の昭和二二年(一九四七)に至ってようやく第二期拡張工事(工期一年)に着手した。

以後、給水人口と居住区域の拡大に対応するため、二六年から第三期(同六年)、四三年から第四期(同五年)、五五年から第五期(同九年)事業を施工した。

これによって日照りが長期間続く異常気象の年であっても水に悩むことのない、計画給水人口三万七二〇〇人の上水道設備が整った。

『新修紋別市史』 p.399

 

太平洋戦争の辺りの上水道供給事情はかなりきびしかったようです.1980年代になって,水不足にならないような状況になったようです。

 

昭和二二年から第五期工事が完工した昭和六三年までの実工事期間二一年にわたるこの上水道拡張整備事業で、特に特徴的なのは、第四期工事で水源を貯水力に限度のある水源地から、絶えず豊富な水をたたえる一級河川渚滑川本流に切り替え、取水した表流水を渚滑ポンプ場から約四二〇〇メートルの導水管で新設の花園浄水場(昭和四五年)に送り、極端な渇水期にあっても安定供給できる体制が実現したことである。

『新修紋別市史』 p.399

 

渚滑川の豊富な水を紋別市街まで引いてくることで,高い供給能力を実現したようです.衛星写真を見ると,ちゃんと取水口が確認できます.

 

 

取水口から,渚滑市街のポンプ場までは,自由落下で導水しているようです.導水路はどこを通っているのでしょうか?

 

 

さらに,ポンプ場から浄水場までは,4200メートルも水を汲み上げているわけです.これも,どこかすこしでも地上にでてる部分があれば,見てみたいなあと思います.

 

 

ところで,藻別川を水源としなかったのはなぜなのでしょうか? 紋別渚滑川と藻別川の間に市街が広がっているわけで,人が多く住んでいる部分は藻別川に近いところにあるので,少し不思議です.

 

第四期拡張事業終了直後の昭和四八年八月八日、閉山まもない住友金属鴻之舞鉱山の沈殿池が大雨で決壊し、沈殿池底層に堆積していたシアンが藻別川に流出して大量の魚が中毒死する事故が発生した。藻別川の伏流水を水源としていた元紋別地区の簡易水道(昭和三三年設置)は、シアン汚染で使用できなくなったため、市は簡易水道を廃止して、元紋別地区を紋別市街地の水道給水区域に編入することにし、四期工事で布設した花園配水区南が丘幹線から元紋別地区に急きょ約一四〇〇メートルの配水管を延長してこの年一二月、給水を復活させた。

『新修紋別市史』 p.399

 

もしかしたら,紋別市側は藻別川上流の鴻之舞鉱山による鉱毒の危険性を認識していたのかもしれません.鉱毒事故が起きたのは花園浄水場完成の後ですが,渚滑川の水を使ったというのはよかったのだろうと思います.この辺の事情も今後調べられたらよいなあと思っています.

 

 

今は改修工事が行われているようです.70年代からある設備だし,老朽化しているところも多くあるのかもしれません.

 

 

花園浄水場をあとにし,落石山の北側斜面を降りていきます.

 

 

つづき↓

(まだかけてません)