第2回紋別ぴよぴよ会・紋別公園へ

バスターミナルに荷物を置いて,紋別公園へと向かいます.

 

 

バスターミナルのすぐ北にはメモリアル通り,旧名寄本線跡があります.バスターミナルは旧紋別駅の跡地に作られているのです.

 

 

さらに一本北に行ったところに,鴻紋軌道の跡があります.名寄本線紋別駅を出て海側を通っているのとは異なり,山側を通り,鴻之舞まで伸びていたそうです.

 

 

鴻紋軌道を歩きます.ツイートではメモリアル通りと言っていますが嘘です.途中,林業会館があり,中に何が入っているか見たら,木材協同組合はともかく,日本棋院が入っていました.将棋の駒や盤を作っていた業者もあったのかもしれません.今は木材の買い付けもしておらず,運良く生き残った数社の企業の組合が惰性で残っているだけという感じです.

 

紋別木材協同組合 戦後、造材、製材業者らで設立した紋別地方林産組合を昭和三五年十二月、「協同組合法」に基づいた制度上の融資などを仰ぐことのできる紋別木材協同組合(組合員一八社)に改組し、三九年(一九六四)一月、紋別林産協同組合(一二社)と統合した。

林産加工業の停滞で昭和五〇年代までには一〇社に漸減。平成に至ってさらに一一年(一九九九)までに五社廃業や事業所移転などで退会した。このため主業務としてきた公有林の共同買い受けも年々数量が減少し、平成一三年度以降は買い付け皆無となった。その後の業務は、内部的には組合員に対する業務指導、情報提供、各種事業の企画などと複数の林業関連団体の事務局業務、対外的には各種の受託業務を主としている。組合所有の林業会館(花園町二)に事務所をおいている。

『新修紋別市史』 p.576

 

 

鴻紋軌道跡をあとにして,駅前通りをさらに北へ進んでいきます.坂が多くて困ります.ゴミ捨て場の写真を撮っていますが,熊よけの観点から本州とは違う仕様になっていることが確認できます.

 

 

共産党の委員会がありました.

 

昭和二〇年一〇月、住友武など数人により日本共産党紋別市細胞が結成された。二五年五月一日のメーデーに初参加して「食糧よこせデモ」を組織したのもこの年である。

『新紋別市史 下巻』 p.185

 

昭和二九年以来、地区委員長を務めた篠田晴雄が平成六年に勇退、その後を野村淳一が引き継いだ。

『新修紋別市史』 p.369

 

細胞から委員会へと名前が変わるのが確認できて面白いですね.野村淳一さんは今も共産党の地区委員長兼市議をしているようです.紋別は日本のよくある地方都市の例に漏れず共産党の人気はないみたいで,野村淳一以外に共産党議員はいないようです.

 

 

キリスト教会とそれ系の幼稚園が見えます.奥に見えているのは多分,聖マリア海の星教会というので,別のところにも聖マリア協会があり,どちらにも幼稚園があります.

 

 

紋別は,山と海に囲まれた街で,見る方向を少し変えるだけで全然違う景色が見えます.すごくいいです.しばらく歩くと,落石山東側のふもとに,お寺と神社が見えてきます.

 

 

厳島神社の話を詳細に書くととても長くなるので,これはまた別の機会にまとめます.厳島神社の移転の話や,石碑の話などで,多分1〜2万文字は書けます.時間ないです.建物の装飾や狛犬のなんか躍動感が特徴的です.

 

 

南側に行くと,オホーツク庭園の入口があり,さらにその先には光源寺があります.

 

真宗本願寺派北海山光源寺 昭和五六年四月、客殿、対面所、庫裏を改修し、一〇月に開創九〇年記念法要を執行した。平成元年四月光源寺仏教壮年会を結成し、諸活動を行っている。

『新修紋別市史』 p.1136

 

きれいな建物でした.

 

 

厳島神社の方に戻ってきて,庭園の方に行こうとしたのですが,雨が強すぎてつらく,このあと弁天岬に行ってコーヒーを淹れるとかいうのやりたくないなと思っていました.

 

安政年間に,紋別御用所にオランダから出島を通じて入ってきたコーヒー豆が届いて,それを飲んだという記録が残っているみたいです.紋別市教育委員会生涯学習課が紋別コーヒーの作り方を紹介していたので,ぜひとも,紋別御用所があったあたりでこれをやりたいなあとおもっていました.細かいやり方は動画を参照してください.

 


www.youtube.com

 

紋別御用所があったのは港湾事務所のある弁天町なので,ちょっと遠いし,屋根のある場所もなさそうなので,もう厳島神社でやっちゃおうかと思ったわけです.

 

 

やってしまいました.こぼすと染みになったりしてよくないし,別のところでやるのをおすすめします.

 

 

オホーツク庭園に来ました.滝がきれいでした.

 

ほかに花園町の旧石切場跡にやはり一〇〇年記念事業としてオホーツク庭園を造成中である。

『新紋別市史 下巻』 p.221

 

紋別市史の時点では,造成中ということになっています.

 

オホーツク庭園は五年の歳月と二億七〇〇〇万円の事業費を投じて昭和五八年(一九八三)七月、公園南斜面の石切り場跡に造成された。石切り場は紋別港建設(大正一二年〜昭和三二年)の石材を切り出した跡地で、高さ二〇メートルをこえる断崖がそそり立つ。

『新修紋別市史』 p.392

 

紋別港築港のための石材の石切り場の断崖を公園に利用したということで,非常に良い試みだと思います.

 

石切り場では昭和20年代に,ダイナマイトを爆発させ,砕石していたようです.厳島神社の中で撮った写真に,「故中尾学君殉職之碑」というのがありましたが,砕石作業中の事故で亡くなったということのようです.

 

中尾学氏の殉職事故があった昭和二十八年、私(著者・小野)は十一歳で小学校五年生でした。この石切り場のことを我々花園町に住んでいた者は「石山」と呼んでいましたが、(中略)石山付近は絶好の遊び場であり、石切り場でさえ“ロック・クライミング”を楽しんだ場所でもありました。しかし何と言っても恐ろしかったのは何時間か置きに石を崩すために使うダイナマイトの爆発と、降りそそいでくる岩石の雨でありました。

この日も私達花園町の子供達は、うっすら積った雪の中、小高い丘で遊び回っていた。その時、発破(ダイナマイトのこと)の爆破を告げるサイレンが鳴り、私達も木の陰や野外劇場の床にもぐり込んで避難しました。五回ほど爆破するのがいつもの例と記憶していますが、この日はいつもより爆破の回数が少ないように思いました。変だナアと思いながら木の陰から出て、しばらく遊んでいると、突然“ドカーン”と鳴り我々はビックリして顔を合わせました。あとで聞くと、最後の一発が爆発していないので、点検に行った中尾氏が、仕かけた場所に近ずくと同時に爆発したという(当時聞いた記憶)。そのうちの岩の一片が中尾氏に直撃し、即死状態だったということです。(略)

当時,石切り場から五百メートル離れた我が家にも、時々医師の破片が降ってきました。あるときには、直径二十センチほどの石が屋根をつき破り、居間に激しい音を立てて落ちてきたこともありました。

紋別石碑散歩』 pp.59~60

 

昭和だなあと思います.

 

 

滝はきれいでした.紅葉の季節はもっときれいってどこかに書いてありました.

 

 

潮見緑園通りの良さについて語っています.潮見町は名前の由来でもあるんですが,海が大変にきれいに見えます.潮見緑園通りは,緑道として整備されていますが,この一番標高が高い部分からの景色はすごく良いです.雨だったのでいまいちですが,晴れてるともっといいと思います.紋別公園からちょっと歩くと来れるので,ぜひ来ましょう.

 

緑園終端のちょうど北側に武徳殿という道場があります.大きくてきれいなたてもので,柔道場って感じがします.

 

武徳殿 少年、一般の柔剣道の練成は紋別警察署の演武場を借りて行っていた。青少年の健全育成助長のため、独立した道場の設置が望まれるようになり、四〇年(一九六五)二月、紋別武道館建設期成会(会長・松崎隆一紋別剣道連盟会長)を設立して道場の建設を計画したが、たまたま鴻之舞鉱業所の厚意で「光風殿」の寄贈をうけ、四一年一一月、藤田建設の手で潮見町四丁目に移転、復元した。移転改修費九〇〇〇万円のうち五〇〇〇万円は期成会、四〇〇〇万円は市が負担、市教委の管理運営とした。

『新紋別市史 下巻』 pp.849~850

 

外から見ると北側に弓道場は見えますが,剣道と柔道ができるのかはよくわかりませんでした.直接窓から覗けばよかったかもしれませんが,nymwaさんはみなさんご存知の通り圧倒的に常識人なので,そのような行為はしませんでした.こんど行った時に覗こうと思います.

 

 

潮見緑園通りから紋別公園に向かっていきます.

 

 

紋別公園に来ました.紋別公園は,落石山の頂上にある公園で,紋別市内を一望できる場所です.

 

 

だるまさんがころんだは奈良県のどっかのお寺が発祥の地なんですが,じゃあ終焉の地がどこかと言われたら,まあ明らかに紋別なわけです.なので,紋別オホーツク海とだるまさんがころんだをするわけです.

 

 

行ったら一面にカラスがいたのですが,自分が紋別公園の展望台のあるところまで行くと,みんなどっかに行ってしまいました.多分,紋別公園のあたりにカラスがいっぱい澄んでいるんだと思います.

 

 

紋別公園です.いやほんとに景色がいいので,みんな来てね.

 

 

「第一回紋別公園でオホーツク海とだるまさんがころんだ」です.新しい紋別の流行りになることは間違いありませんが,自然とだるまさんがころんだをするのは精神の探求としての側面が強く,必ずしも容易に人に勧められるものではありません.いい歳して人とだるまさんがころんだをするのも,どうかと思うので,やっぱりやらないほうがいいかもしれません.

 

紋別公園で,nymwaさんと一緒にだるまさんがころんだをしてくれる人,いたら教えてください.泣きながらだるまさんがころんだをしますし,ご飯を奢る蓋然性は相当程度に高いです.

 

 

展望台みたいなのがあるので,登ってみました.紋別市街,紋別港が一望できます.紋別市の地理を把握しやすい場所でもあるので,いろんな意味で良いところです.

 

大山団地の東側9棟が未成なんですが,これどうなってるんでしょうか.どういう計画か調べてもよくわからないです.

 

 

紋別公園から見ると紋別港の全容がよくわかります.紋別港の計画の策定には,初代副市長を努めた官尾貫一など様々な人たちの尽力がありました.まじめなはなしとか言いながら細かい部分で嘘ばっかり言ってるので,もうすこしまじめに書きます.

 

昭和二十年八月十五日、太平洋戦争は日本の無条件降伏でついに終結した。(略)こうしたなかにあって人々は、まず目前の食糧を欲した。(略)必然的に国民の眼は海に向けられた。(略)オホーツク海沿岸の中心部に位する紋別港は、国内蛋白質資源供給に重要位置を占め、年間六万トン余の水揚げを示して需要の期待に応えた。需要が多くなるにつれて在港漁船数は増加し、また沿岸から沖合進出に伴なって大型化した漁船を収容するために、港湾拡張の必要に迫られた。

戦後の紋別港湾拡張運動が本格的に開始されたのは昭和二十二年十月ころからであるが、これよりさき昭和十二月二十七日、大時化が紋別港を襲った。(中略)この時化のもたらした最大の被害は、激しい風雨が港外の漂砂を港内に運び、肝心の港内水深をマイナス二メートルにまで埋めてしまったことである.このため漁船の出入港にはなはだしい支障をきたすにいたった。

紋別港湾拡張の急務は期せずして、業者間に高まってきた。(略)翌二十一年にいたり、町理事者は業者の要請に応じて、道庁土木港湾課見上春雄技師に紋別漁港拡張計画の設計を依頼するとともに、実現運動を展開した。

紋別市史』 pp.1024~1025

 

戦後復興のため,紋別町は第一次港湾拡張計画を策定します.

 

すなわち現有船入間の南方接続公有水面を南堤先端まで約一二万平方メートル埋め立てて、この岸壁からさらに沖合に向けて幅員五〇メートルないし七五メートル、延長一〇〇メートルの係船岸壁三本を並行に築設する。(中略)南堤先端から当方の北防波堤先端まで延長約八〇〇メートルの防波堤を築き、陸岸船澗を半円形に囲う。さらに、港内水深を平均七メートル前後にまで掘り下げて二〇〇〇トン級の貨物船の入港を可能とし、(中略)将来の発展にそなえるという案であった。

『新紋別市史 上巻』 p.903

 

かんたんに言うと,防波堤を伸ばして囲って,港の底の土砂を取り除いて大きな船を入れられるようにしようということです.

 

昭和二十二年四月の首長公選初の選挙により、初代公選町長に大西真平が選ばれたのを機会に、大西は女房役をもとめるに際して「人格、識見ともに道庁の課長あるいは支庁長クラスの人物を」という条件で、人選を旧知である時の道議会議長坂東秀太郎に依頼、そのあっせんで、当時日本人造石油の総務部長であった官尾貫一が、招かれて同年六月助役(nymwa注:助役は副町長・副市長と同義です)に就任した。官尾は永らく道庁にあって、十五年余を拓殖計画一筋に暮してきた生粋の拓計畑出身で、道内の河川、港湾も数多く手掛けてきただけあって、さすが、その道には明るかった。

助役に就任した官尾が、まず着目したのは港湾であった。(略)さきの第一次計画案の再検討を開始した。

紋別市史』 pp.1025~1026

 

戦後,選挙で町長が決まり,副市長には港湾にくわしい人が就任しました.官尾は第一次計画をやめて,第二次計画を作ります.

 

官尾が計画をねり直すにあたってえがいた構想は、オホーツク海の中心的立地条件を大いに生かし、対外的な大海運港をめざすため、元紋別付近までを将来の港湾拡張地域に組みいれるというスケールの大きなものであった。こうした見地から見上案(nymwa注:第一次計画のこと)をながめると、差しあたって必要な港湾施設の拡張に異論はないにしても、南防波堤約八〇〇メートルの築設によって南西を囲ってしまうことは港湾拡張の範囲を限定し、将来の拡張に問題を残すばかりでなく、在港船を激浪の危険から守りうるかどうかの(原文ママ,おそらく「も」)心配であった。

『新紋別市史 上巻』 p.904

 

計画ができたようです.

 

拡張計画はどうにか出来上った。つぎはこの計画をいかにして実現させるかという段階である。拡張運動はすでに昭和二十一年から開始されてはいたものの、基礎となるべき第一次計画そのものが、はなはだばく然としたものであったため、運動の第一次段階である道当局でさえも、全然受付けず、まして中央に反映することなどは、まったく相手にもされず「一体紋別とはどこにあるのか」と、地図を虫眼鏡を前にして、からかうような応待を受ける始末で、港湾拡張どころか、まず紋別なるものを、お役人に認識させることが先決問題であった。

紋別市史』 p.1028

 

紋別なんて中央のひとは知りません.

 

せめて現地の事情を説明するだけでもと、対策を協議中のところへ現れた仲介者が、紋別出身の道議古屋正気である。(中略)古屋は,土木部長池田一男(後の北海道開発庁次官)を呼び、事情を聴取するとともに、倉敷港湾課長を現地に派して実情調査させるなど、運動の促進に目ざましい活躍と協力ぶりをみせた。当時運動員に随行していた町土木課長田中保治(現市建設部技術長)は「道当局があくまで渋っているのも構わず、まったく強引ともいえるやり方で道庁の首脳部を説きふせ、調査の段階にまでこぎつけたことは、古屋さんの政治力であり、その真剣な努力と協力には感謝するばかりだ。実際、古屋さんの助けがなかったら、紋別港の現勢はどうなっているか判らなかっただろう」と追憶しているが、古屋こそ紋別港湾拡張計画に最初の端緒を与えた功労者といえよう。

紋別市史』 p.1029

 

道庁となんとか話をつけることができたようです.

 

つぎは中央に対する予算獲得折衝であるが、(中略)大西町長が老体をひっさげて陣頭に立ち、十二月上旬官尾貫一助役、笠井町議らが古屋道議と同道、急遽上京の上、池田土木部長と打合せて関係官庁との折衝を開始した。(略)当時占領下の日本では、国内政策の何一つを決めるにも一々連合軍総司令部(G・H・Q)の承認を必要とした時代である。(略)運動委員の一行は、百方奔走の末経済関係担当官ミーラ某に面会することに成功した。(略)国内の食糧事情かん和を理由に、オホーツク海漁業資源の活用を力説した結果、検討資料として「紋別港湾経済調書」の提出を命ぜられた。

紋別市史』 pp.1029~1030

 

GHQに計画書を出せと言われました.

 

しかし獲得できた予算は二三年度九〇〇万円、二四年度六〇〇万円、二五年度九三〇万円、二六年度一〇〇〇万円といずれも期待に反するものであった。(略)この間に施工された工事は(中略)計画に対して、一〇%にも満たぬ進捗率であった。

『新紋別市史 上巻』 p.908

 

お金は足りませんでした.

 

年間一〇〇〇万円に満たぬ予算で拡張工事の進行もはかばかしくなかった昭和二五年六月、専任の大臣を長とする北海道開発庁が発足、翌年から北海道漁港修築費は北海道開発事業費として開発庁に計上されることとなった。(中略)紋別、浦河、岩内など二五港は港湾に区分され、港湾法にもとづき北海道総合開発計画のもとで強力に整備推進されることとなった。

『新紋別市史 上巻』 pp.909~910

 

もうなんか書くのめんどうなんですけど,北海道の開発計画にうまくのって,お金を出してもらえるようになりました.これが1950年の話です.この,北海道総合開発計画に基づき,紋別港湾整備計画がたてられました.紋別港湾整備計画は平成八〜一四年の第九次まで続けられ,現在の弁天岬から元紋別地域までの壮大な港湾が完成します.詳しいことは新紋別市史と新修紋別市史を読んでください.

 

次は,紋別公園をあとにして,市役所・博物館の方へと向かいます.

 

つづき

まだかいてません