第2回紋別ぴよぴよ会・国道238号線

せせらぎ公園をあとにして,国道238号線に戻ってきました.落石山の北側をたどりながら,市街の方へと戻っていくつもりなのですが,その前に北海道といえば,あのラーメン屋なので,食べに行きたいと思います.

 

 

国道238号線を北へ進むと,落石町から渚滑地域に入ります.1954年の紋別町・渚滑村・上渚滑村の合併で現在の紋別市ができるのですが,この旧渚滑村の区域になります.

 

 

なんかもーてる的なのある.やってるんだろうか.

 

味の時計台に行かないのかという問いに関しては,北海道といえば味の時計台という点においては完全にそうなのだが,北海道といえばで北海道のラーメン屋に行くというのは必ずしも正しい選択ではないということを見落としていると思います.

 

 


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くっせに〜 なるあじ〜 ら〜めんの〜 やまおかや〜

 

この曲は店舗で流れています.

 

 

山岡家は茨城で創業したみたいなんですが,店主が札幌でおいしいラーメンを食べて感化されちゃったらしく,北海道に本社を移転するなど,これはもはや北海道ローカルチェーンと言ってもよいでしょう.(それは嘘で,関東のほうが店舗は多いです)

 

 

食券機があったので,一番左上にあるボタンを押したら,しょうゆラーメンだったようです.これは本当にしょうゆラーメンなんだろうかという見た目をしています.濃い味が嫌いな人は行かない方がいいです.大岡山にもできてほしいですが,店舗の分布を見るとわかる通り,関東郊外と北海道にしかありません.大都会大岡山のおいしいラーメン店には敵わないということは,よく理解しているものと思われます.

 

 

 

 

国道を歩きます.ロードサイドの景色が広がっています.北海道でも沖縄でも,日本ではどこでも見れるものなのだろうと思います.紋別にもすき家はあります.

 

 

ここから国道238号線は落石山と紋別山の峠部分を超えていきます.実は,行きに通ってきた北浜町の道道305号線が国道の旧道にあたります.

 

紋別バイパス 網走市から稚内市に至る一般国道二三八号は、紋別バイパスが開通する平成六年まで、紋別市街中心部の本町商店街を縦断していた。乗用車の普及と貨物車の大型化によって交通渋滞をきたすようになり、積雪期には車道、歩道がせばまって交通事故の危険性も増し、加えて沿道の商店、民家からは排気ガス、騒音、振動など、環境の悪化を訴える声が聞かれるようになった。

『新修紋別市史』 p.759

 

たしかに,紋別市街の真ん中にこれだけの交通量があると嫌です.

 

昭和五一年、バイパスは元紋別の藻別橋付近の国道から分岐して大山のふもとを抜け、渚滑市街地に至る全長九四六三メートルの山回りルートに決定。建設工事は五三年から網走開発建設部紋別道路建設事業所によりルートを三工区に分けて行い、渚滑川の第三工区(渚滑町元新市道山の上線交点付近〜国道二三八号・二七三号交点、全長二七六三メートル)の用地買収から事業を開始した。六三年十一月、第二工区と第三工区(新生道道交点〜渚滑町元新市道山の上線交点付近、全長四四六〇メートル)が開通した。

『新修紋別市史』 pp.759~760

 

大体80年代ごろに,渚滑地域から紋別山の南側までの工事が進められたようです.1988年時点ではほとんど開通していたのですが,最後の区間の用地買収が進まず,工事は長引きます.

 

残る第一工区(元紋別藻別川〜新生道道交点、全長二二四〇メートル)は、一部の用地買収が手間取ったことなどで工期が長引き、平成六年(一九九四)完成を見た。この年一一月一日の開通式で念願の紋別バイパス全線の供用が開始された。着工から一六年を要し、総事業費は八八億円。バイパスが通過する大山、渚滑両町の住居専用地域には、エゾマツやレンゲツツジなどの植樹帯が設けられた。

『新修紋別市史』 p.760

 

 

この際に植えられたエゾマツやレンゲツツジも次回以降のぴよぴよ会で訪れたいと思います.

 

 

農協が見えます.「JAオホーツクはまなす」という愛称がついているみたいです.このような愛称の農協ができたのは,北海道の農業事情が背景にあります.

 

農家戸数の減少、農畜産物輸入自由化、さらに金融の自由化などが農協、農家経営に影響を与えた。こうした農業情勢から農協合併は重要課題とされた。平成六年の北海道農協大会で、「北海道新JA合併構想」が決議され、二〇〇〇年までに三七農協は合併集約するという大編成に向けて、各地区で取り組むことになった。

『新修紋別市史』 p.531

 

紋別市西興部村滝上町、上渚滑の四農協の合併について、地域農業の永続的な発展と組合員の営農と生活を守ることを第一義に、各事業部門の検討も重ねられた。(略)一三年三月一日、四農協対等合併によって新農協の発足を正式に決定した。新農協の名称は「オホーツクはまなす農業協同組合」(愛称JAオホーツクはまなす)とした。組合員三三四戸、販売高七七億八〇〇〇万円、貯金高一七〇億六〇〇〇万円であった。

『新修紋別市史』 p.532

 

昭和が終わり,平成の前半にかけて西紋地域の農協再編が行われたようです.なんでや阪神関係ないやろ.

 

 

雨が降ってきてつらいです.天気が悪いとつらいです.

 

 

歩くのは非文明で体に悪いので,なるべくなんとか耐えるためにトレッキングポールを使っています.それはそうとして坂が多いのでつらいです.

 

 

頭が悪そうな坂があったので,国道をはずれて歩いてみます.

 

 

 

この道路は,都市計画道路学園通という名前で,490メートルの未成区間があります.それだけでなく,行き止まりの謎の未成道もあります.地図で確認してみると,放置された道路の先には,道都大学紋別キャンパスの跡地があります.

 

 

昭和五二年(一九七七)三月、文部省の諮問機関である大学設置審議会(施設建設設備状況と教授の内容・学部学科について審議)と私立大学審議会(学校の経営・財政について審議)の両審議会が,かねてから設置申請が出されていた道都大学の設置について「可」と答申したことを受けて、文部大臣の認可が下りた。正式に開学が決定した道都大学はこの年四月、起工式を行い校舎の建設に着手した。

『新修紋別市史』 p.854

 

開学当初は福祉学部と美術学部があったそうです.しかし,財政状況の厳しさから,大学は撤退を考え始めます.紋別市は約7億円の財政的支援を行うなどし,存続への協議を続けましたが,うまくいきませんでした.

 

この間、市議会は、数度にわたる大学存続に関する特別委員会を開催して、存続に向けた対策の模索を続けている最中の八年二月、大学から学生支援予算を辞退するという文書を受けた。次いで三月、デザイン学科七八人、建築学科七一人計一四九人の卒業生を送り出して、美術学部はすべて北広島市へ移転した。

『新修紋別市史』 p.856

 

また,福祉学部も,市は10年にわたり28億の支援を行いますが,撤退してしまいました.

 

しかし、強まる一方の少子化傾向による入学者数の激減や、開学当初では予想ができなかった福祉系大学の乱立が、将来にわたり大きな財政負担を強いることとなり、そのことが撤退不可避の理由になったことは否めない。(略)道都大学の経営は時代の趨勢には抗しきれず、二七年の歴史と二四回、五三九九人(内女子八三六人)の卒業生を送り出し、平成一七年(二〇〇五)三月末日にその歴史を閉じた。

『新修紋別市史』 p.859

 

学園通りはとても広い道路なのに,自分が行ったときは,数分いただけではありますが,車が1台通っただけでした.

 

(nymwa注:大学協力会)会長横山登はその思いを『道都大学紋別キャンパスの設置が決まった時、市民は花火を上げて祝った。学生受け入れのために次々とアパート、下宿が建設された。学生のボランティア組織が市内各所、各施設で活躍してくれた光景。大学祭等で若さが爆発したシーン。あふれる笑顔。または悲しい交通事故。希望にあふれた入学式、そして卒業式。それらの光景が二七年分思い出されます。“東京からではなく、紋別から世界に発信を”を目標に北極星のような、希望に燃えた大学でした。』と綴っている。

『新修紋別市史』 p.860

 

 

もし道都大学が撤退していなかったら,この沢は道路の下に埋められていたのかもしれません.

 

 

国道に戻ってきました.落石峠に近づいてきています.

 

 

学園通はここで国道と接続する計画でした.

 

 

貯水池が見えます.自分の前を歩いていた散歩してるおばあさんはここから左に消えていきました.貯水池の横は徒歩で通れるようになっているみたいです.

 

 

国道の落石峠につきました.ここをもう少し行くと大山スキー場なのですが,さすがに雨でつらすぎるので諦めて引き返しました.

 

 

おばあさんが通って行った貯水池の隣の道を抜けて,国道ではなくて本来の落石峠の方へ向かっていきます.

 

つづき↓

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