第2回紋別ぴよぴよ会・夜の紋別市街

潮見町もおわりです.落石山の北東側斜面を沿って歩き続けると,次第に紋別港北防波堤が見えてきます.アルトゥルコタンからトマリオロへと抜ける光景は,紋別の歴史と地理を感じるものです.

 

 

おんぼろ市役所が見えてきました.戻ってきたことを実感できます.

 

 

市役所の反対側に渡ると紋別大谷認定こども園があります.幼稚園と認定こども園の違いがなんなのかとか,よくわかりません.

 

このこども園の裏に大谷派圓満寺があります.真宗といえば一番大きいのが本願寺派で,二番目が大谷派です.大谷高校とか大谷大学とかいろいろ世の中にはありますが,大谷派はなんでもかんでも大谷って付けがちです.

 

自分の実家も大谷派の檀家です.派閥が違ったからと言って,ナンマイダーって言っているのは変わらないし,浄土の存在を前提としているのも変わりません.仏壇の作りやお教の読み方がちょっと違うだけなのに,真宗十派だとかなんだとかいろいろあって,なんなんだ,なんまいだ,という感じですが,全部同じと思ってしまうのも,これがほんとの十派一絡なのかもしれませんし,毎日のお勤めに励みましょう.(本当に?)

 

 

大谷派の檀家だと,お寺から親鸞カレンダーみたいなのをもらえたりするので,もしかしたらこのこども園でも,そういうの配ってるのかもしれません.ああいうのってどこで作ってるんですかね.東本願寺とかに在庫いっぱい抱えてそうではあります.

 

 

自殺はだめです.生きることに意味はあります.

 

 

圓満寺の道路を挟んで北側には旧名寄線の跡があります.道路だけ見ると結構な勾配なんですが,実際はこのもうすこし南側を線路が通っていたので,それを考慮すると勾配はゆるやかで,鉄路が存在していたことを実感できます.

 

 

陽気ぐらし教です.詳細は1日目の記事に書くつもり(この記事の方が執筆順序が先)なんですが,やっぱり仏教寺院とも神社とも違う独特な感じがあります.

 

 

おんぼろ市役所と議事堂の間の崖がいいですね.これ,本当にいいと思うのでみなさん見に行きましょう.

 

 

いつの地図なんでしょうか.この地図にある商店はもうほとんど残っていません.

 

 

明治期に遊郭があったのはもうちょっと写真奥の本町側みたいです.ここにあったのは芝居小屋だったようです.

 

もうひとつの「東亭」は明治二十年代に建てられた芝居小屋では紋別で一番最初のもので月一回か二回興行があった。「あの頃は紋別へ来た旅回りの一座が雪のため、次の土地に行けなくてよく越年したものです。だから越年芝居というのもありました。中村紫蝶一座がやはり越年し座長が地元の人たちに踊りの振り付けをしたりし、習った素人たちが演芸会を開いたこともありました。紫蝶一座はその後紋別で解散しました。(斎藤貳郎さん談)」という話にもあるように、開拓前期の数少ない文化の殿堂の役割を果たしました。

『夜ばなし 紋別ものがたり(一)』 p.9

 

 

芝居小屋があった場所は,戦後,大原畳店があったみたいですが,いまはマンションと空き地になっています.

 

 

いつからやってないんだろうか.

 

 

さらに港の方に道を下っていきます.消防団の建物があります.

 

 

消防団の反対側にあるのが,この労働福祉会館.この建物,めちゃくちゃおもしろいです.

 

 

支部の事務所は四二年、港町一丁目、現紋別市労働福祉会館の完成と同時に同館内に設置し、それまでは支部長宅などを利用していた。五八年四月現在の支部党員数は四三人。

『新紋別市史 下巻』 p.184

 

1967年から社会党はここを拠点としていたようです.紋別市初代市長大西真平,2代市長官尾貫一は社会党系で,紋別は戦後革新系市政から始まった自治体でした.

 

日本社会党紋別支部が古屋正気を中心とする党員九〇〇余人をもって結成されたのは昭和二一年(一九四六)二月である。翌二二年四月、戦後初の統一地方選挙で党公認候補として道議に古屋正気、町長に大西真平(推せん)をたて、当選させた。しかし古屋は二三年五月、任期わずか一年で札幌において急逝した。

『新紋別市史 下巻』 p.182

 

紋別港整備のために邁進した大西市長と古屋道議の名前が出てきました.紋別港のためにGHQに頭下げに行く前に,社会党紋別支部の設立というのもしていたようです.

 

この後,保守系市政になるのは,1969年のことです.

 

市長選では四四年、前助役菅原啓を擁して市制後初の保守市政を確立。また道議選では五〇年新沼浩を四たび候補に立てて宿願の初当選を果たした。

『新紋別市史 下巻』 p.182

 

自民系市長は菅原市政の後,金田市政,赤井市政と続きます.現在の宮川市政は民主党系です.

 

選挙の実績では、社会党時代の退潮ムードから回復傾向を見せ、特に一七年六月の市長選挙では宮川良一候補を推薦、現職の赤井邦男候補を破ったのが特筆される。(略)一八年四月現在の党員数は二〇人で、事務所は一五年から本町六丁目に構えている。

『新修紋別市史』 p.368

 

民主党の本部は本町6丁目に移っていたようで,今はこの建物は立憲民主関連では使われていない可能性が高いと見ています.

 

 

郵便受けがあったので見てみると,民主党だけでなく,連合や北教組の名前が見えます.ツイートでは教育委員会とありますが,そんなわけはなく,普通に間違えていて,自明に北海道教職員組合の略です.アベちゃんが「にっきょーそー」って言っていたやつの北海道のやつです.教育委員会は多分市役所とかにあります.

 

 


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いろんな旧社会党系の組合がここにかつて入っていたのだろうということがわかります.ただ,郵便受けにガムテープが貼ってあることからもわかるように,現在はあまり使われていないようです.中を覗くと,連合のマスコットキャラクター・ユニオニオンが置いてありました.いつから置いてあるのでしょうか.

 

 

現在は立憲のポスターが貼ってありますが,ストリートビューで2015年の写真を見ると,民主党のポスターが貼ってあります.まだ民主党のときは連合が生きていたのかもしれませんが,いまはどうなのでしょう.

 

 

労働福祉会館を過ぎて海岸通りまできました.使われてない倉庫が商店の跡が並びます.「平和鶴」とありますが,何の業者だったのでしょうか.日本酒みたいな名前をしているし,もしかしたら酒蔵もあったのかもしれません.

 

 

本町の通りの方に戻ってきました.

 

 

明治期に遊郭があったのはこのあたりみたいです.今はぼろぼろで歪んだ崩れそうな建物が建っています.かつてここにあったのは北見楼という料理屋だったようです.表向き料理屋というのは,同様のものが現在でも飛田新地に残っているみたいな話もあるので,そういうのだったのかもしれません.それはそうとして,この紋別通運という業者は今でもあるのでしょうか.

 

その料理屋「北見楼」は遊郭も併営し、明治三十六年頃まで本町二丁目に存在したが、その後弁天町三丁目(竹本ハツさん宅向い空地と思われる)に移転したらしい。

「さよう、木村(nymwa注:料理屋の親分)はうちの寺の檀家総代だったのでよく覚えている。木村が田中の所で経営していた北見楼は三階建だったよ。夜になると十四、五人の女郎が格子戸のところに並んでいたな。(大桃哲竜師談)」

『夜ばなし 紋別ものがたり(一)』 p.8

 

 

その建物のそばには,紋別町の道路元標がありました.よくこんなもんのこってんな,マジで,という気持ちです.「昭和四年建設 北海道庁」ということです.戦後も紋別バイパスが通るまで,ここが国道だったわけですが,戦前も交通の多い大通りだったのだということがわかります.

 

 

もうなんか一日中歩き続けてしんどいのではやくホテル帰りたいという気持ち.

 

 

写真で映っているところにも料理屋があったみたいです.

 

花月楼は現在の宮地薬局(本町二丁目)の所に玄関を新興写真店側(南向き)に向けて二階建で立っていた。

かっては女郎が三十人程も居たというから、その隆盛のほどを知ることができよう。格子戸の玄関を入ると左側に女郎たまり部屋があり女郎源氏名を書いた名札が下がっている。

『夜ばなし 紋別ものがたり(一)』 p.45

 

十字のマークがあるのが宮地薬局跡です.現地に行ってよくよく建物を見ると,店名の文字の跡が残っています.道路を挟んで奥の駐車場が,もともと写真店だったようです.今はヘアーサロンの駐車場になっているみたいです.

 

 

はよホテルつかんかなという気持ちです.

 

 

パールライス(農協がいろんな農家の米を混ぜて売ってる比較的安価な米のブランド名)のことを,かつて水晶米って言っていたっていうのは知ってるんですけど,いつからここにこれあるんですか? もう21世紀2割終わってるんだが?

 

 

徹カラしません.

 

 

HOKKAIDO BANK MONBETSU

 

 

徹カラしません.

 

 

ホテルに付きました.

 

 

2日目ももうすぐ終わりです.ぴよぴよ会も終盤です.

 

つづき

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