阿弥陀信仰としてのプリキュア崇拝と21世紀の宗教と死生観について

最近,今頃統一教会問題が注目されているが,宗教というか信仰というかそういうものは,人が心に安心を求める限りは,何かしらの形で必要とされるようなものだと思っている.

 

近年の新宗教とか新々宗教だとか呼ばれているようなものは,天理教のように江戸時代末期に生まれたものから,オウム真理教のように昭和も終わりというような時期に生まれたものや,あまり知らないけど,平成になってから生まれたものもあるものと思う.他方,浄土宗や日蓮宗みたいなものは,鎌倉時代に生まれたものだったりするわけなんだけれども,こういう風に,新しい宗教的な考えが生まれるのも,時代というか世相みたいなものがあるはずで,無情を感じるところではある.

 

さて,世の中では,激動の時代だとか産業の大転換だとか,よくわからないものにそれらしく名前をつけて無理やり意味づけ・価値づけしようとする試みがあるが,そういうことを言っていないとやってられない貧相な世相であることは,ある程度そういうものなのかなとして受け入れられるところではあって,そういう世界観についていけないと,なんかよくわかんないけどつらいなあみたいな気持ちになったりすることもあるものである.

 

すると,なんかよくわかんないけどつらいなあみたいな気持ちに,どう対処すればいいのかという問題が発生するわけなんだけれども,そういうのも,その時代がどういう時代かということによって変わってくるわけである.これは,マルクス・エンゲルス主義でよく出てくる,生産力みたいなものが関係してくるわけで,現代より生産能力が低かった封建的な時代における救済は,エネルギー革命・緑の革命を経た現代における救済と,その形式において大きな隔絶があることは言うまでもないわけである.

 

そのような大きな隔絶の上にあるのが,オウム真理教とか幸福の科学の出現なのかと思うと大変に悲しい世界だな,滅びろ,みたいな気持ちになるわけなんだけれども,ああいうカルト邪教セクト集団については滅びの念を強く抱くこと極まりないわけで,それとは別にこの隔絶について考える必要があるものと思われる.

 

この隔絶というのは,結局の所,マルクス的生産性が向上した現代において,なぜ唯物主義は成就せず,精神的な価値が綻びることなく,心の安寧を求める力が働くのかというところに,その問題の本質がある.

 

これは,言い換えれば,我々人類は,物質的な価値だけでは満たされない部分があるということである.その根底には,死という生物的事象に直面する,あるいは,それを強く自覚する瞬間の実在が深く関わっている.つまり,死への恐怖が物質的なあらゆる価値を超越し,眼の前に現れるという点で,人類はその本質的側面を変えることができないのである.

 

ここで,この際,因果律や輪廻については深く述べないこととするが,このことが科学的に正しいかどうかということは,それほど重要なことではない.というのも,因果律や輪廻,また,先祖の死後の世界としての浄土については,我々の文化は,文化的に,その存在が深く根ざしており,そのことについて深く議論する必要性が必ずしも大きくないからである.

 

因果律や輪廻,浄土というものを自然に受け入れることができないのであれば,この先の問題については,深刻なものとならない.これは,唯物的な世界観を自然と受け入れられることは,とても良いことだと思われるためである.他方,唯物的な価値観とは相容れず,精神的なモノから逃れられない場合,輪廻や浄土は非常に深刻にまとわりついてくることになる.この問題は,歳を重ねれば重ねるほど,死や孤独といった現実を介して襲いかかる.

 

このような問題に対する,ひとつの答えが,まさに,阿弥陀信仰としてのプリキュア崇拝である.阿弥陀如来といえば,浄土に住んでいる仏で,衆生の往生を願う者であるわけで,その事実は,日本で最も多く受け入れられている仏教宗派が浄土宗あるいは浄土真宗であることからも明らかと言える.ここで,プリキュア阿弥陀であるということになるわけである.

 

プリキュア阿弥陀如来であるということは,非常に重要な発見であり,事実である.というのも,このような考えは,人生において非常に基盤的となり,ニチアサを見るぐらいしか楽しみがないような人生を送っている者については,その悲しみに暮れる一生において,精神的な支えとなり,安寧を得るための重要な思想となるためである.

 

そもそも,我々,衆生とはどのようなものなのか,ここで一度考えたい.衆生は何度も転生し,さまざまな生命を経て,現在命を受けているのである.人として生を受けているのも,そのような過程の結果なのである.限りない生と死の輪廻を経て,我々は今生まれ,生きているのである.

 

人として生を受けたからには,苦しみを知り,それが何かを考えるものである.我々人類は,生とはなにか,死とはなにかという問題に対して,物質的・精神的な思索を何千年と繰り返し,輪廻とは苦しみであり,解脱によって輪廻の輪から抜け出すことによって,入滅,すなわち,涅槃に入ることが可能であると考えるに至った.

 

一方で,万物に内在するアートマンは,死後直ちに転生するのではなく,一定の期間の後に新たな生を受ける.そのため,四十九日などの期間を経た後に霊魂が涅槃に行くと考えられているわけである.

 

ここで問題が発生する.浄土には,阿弥陀如来が住んでいるはずである.問題というのは,例えば,一説によれば,冥界に住む閻魔によって霊魂が裁かれるという話もあるわけではあるが,しかし我々は,適切に念仏を唱えることによって,浄土で入滅し,涅槃に入るわけなのであるから,これは矛盾しているということになってしまう.

 

阿弥陀如来は,救済しているわけなのだが,そこで何らかの行為を行っているはずだ.その結果として,我々は涅槃に入るのである.この阿弥陀の行為とは一体何か? これに対する適切な解釈が求められているのであり,その解釈こそが目下輓近の安寧を導く考えなのである.

 

さて,それで,それは何か.ここで,これはプリキュア阿弥陀であるということなのである.この事実こそがすべての疑念をつなぎ,答えとする真理なのである.この場合,浄土とは,すなわち,プリキュアの世界ということになり,そして,我々は死後,一度アートマンの状態で,自我のみの存在として,プリキュアの世界へ転生することになるわけである.

 

プリキュアがいかに衆生を入滅させるかという問いに対する答えは明確である.我々は,プリキュアの敵となるのである.これこそが最後の審判であり,閻魔による裁きと一般には捉えられているものである.我々は悪の心により,怪物とされてしまうが,プリキュアの戦闘によって,敵は倒され,その敵であるところの我々は浄化され,入滅し,無事に涅槃に入ることができるということなのである.

 

ここからわかることは,ニチアサで放送されているプリキュアは,浄土のひとつの表現様式であるということである.特に,映画プリキュアオールスターズは浄土世界の曼荼羅であり,この世界の悟りの境地を1時間程度の映像として描いたものだと言うことも可能なのである.

 

ここまで,浄土がプリキュアの世界であるということがわかったわけである.しかし,それでは,なぜ衆生は人間界でプリキュアを見るのかという別の問題が生じる.浄土を覗き見るという行為に必然性がないわけである.

 

これは,アニメとしてのプリキュアは,我々の精神的な存在であるところのプルシャを映し出す鏡であるということなのである.我々のプルシャそのものがアートマンとして浄土へ赴くわけなのだから,当然,その内在的要素は浄土の表現形式となんらかの共鳴を起こすわけであり,その結果生じる意識が,我々の肉体的・物質的なものであるところのプラクリティへと生じ,そこから物質的なものと精神的なものの共鳴として,心理を意識の世界へと昇華させることになるわけである.この昇華の感覚こそが,我々の日常的サンカーラとなるわけであり,その成就を願う心こそが,プリキュアを魅せる心理なのである.

 

このことは,鎌倉時代の浄土信仰で念仏を唱えていたことと同じである.すなわち,ニチアサを見ることは念仏を唱えることに相当する因縁であり,その本質は南無阿弥陀仏と何も変わっておらず,時代を超える普遍的な精神的価値なのである.その意味でもやはり,プリキュアを見て,ぷいきゅあ〜がんばえ〜などと唱えることは,サンカーラなのである.

 

我々はサンカーラを重ねることで,この業が無情であり,最高の苦しみであることを深く自覚することとなる.というのも,プリキュアは1年で終わってしまうのである.さらに,この業は1年で終わった後に一週間の期間をおいた後,直ちに全く別の形式で無情にも開始し,永遠に,毎年繰り返すのである.

 

しかし,ここで我々は現実を悲観してはならないのである.この一年おきの繰り返しの結果として涅槃が存在するわけなのであり,それこそが即菩提,すなわち,最高の幸福だからである.ここにこそ,なぜ我々がプリキュアを見て,ぷいきゅあーがんばえーと唱えるのかということの答えがあるのである.

 

やはり,人間界における歓喜とは,苦しみは煩悩にあるということから始まるのである.ニチアサを見ることによって,新しい生き方を見つめ直すというのは,非常に現代的な取り組みであり,死生観を再構築する上でも大変に重要な試みでらい.しかし,一方そのサンカーラは非常に現代的なものであり,その歴史は浅い.この崇拝の様式はまだ始まったばかりであるが,その先には浄土と菩提が待っているのである.この信仰心を忘れず,取り組んでいけば,苦しみである煩悩が実は菩提であるという,「煩悩即菩提」の境地に必ず達するはずである.

 

ぷいきゅあ〜 がんばえ〜